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【プロポ1】不自由こそが自由の条件

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

不自由こそが自由の条件

 自由になりたいというのは、人間の原初的な願望のひとつでしょう。しかし、本当の本当に自由になってしまったら、逆説的ではありますが、それはとても不自由なことではないかと思うのです。この考えは、ここ数年僕の頭に常にくっついているもので、これについて話すときにはどうしてもエーリッヒ・フロムの著した『自由からの逃走』やジャン=ポール・サルトルが言った「人間は自由の刑に処せられている」という言葉が共起されます。(どちらもなんとなく概念を知っているだけで、原書は未読なんだ…)

 サルトルの言葉「実存は本質に先立つ」から考えてみます。ここでいう実存は存在するという事実そのもの。本質は存在理由だと考えると咀嚼しやすい。楽器は誰からに奏でられ、音楽で人を楽しませるために存在します。音が出なくなった楽器は「壊れた」ということで修理するなり処分するなりすればよい。ナイフは物を切るために存在するので、モノを切る能力がないならそれはナイフとは言えません。これが「本質が実存に先立っている」状態です。存在理由があって初めて存在し、認識される。しかし人間の話となるとそうはいかない。例えば僕はいまIT企業でソフトウェアを作る仕事をしている傍ら、休日には英語を教える教師として働いています。僕が突然頭を強く打って今までに覚えたプログラミング言語や英語をすべて忘れてしまい、再習得もできなくなったと仮定します。仕事はどちらもやめるでしょうが、僕という存在は残り、周囲も僕を僕のままに認識しつづけるでしょう。とすれば、僕という人間は、いえ、人間は一般的に言って「本質に実存が先立っていない」つまりは、「実存が本質に先立つ」存在ということになります。

 プログラミング言語と英語をすべて忘れてしまっても、僕は「壊れた」ことにはならないし、修理も処分もできません。自分を処分するというは死んでしまうことなので、それは実存を放棄しているだけで、僕の本質喪失問題の解決にはなっていません。一方で、修理というのは、「完全な形」(楽器で正しい音が出る状態、ナイフでスムーズにモノが切れる状態)が用意されている存在に対して初めて可能なことではないでしょうか。となると、頭を打った後の僕は、どうなれば自分を取り戻したことになるのでしょうか。というか、自分の本質について、いったい何を失ったというのでしょうか。

 そもそも僕たちは普段生きている中で、自分の本質を満たしているといえるのでしょうか。先の例で僕は仕事を失いましたが、その仕事をすること自体が自分の本質、自分の存在理由なのでしょうか。否。僕たち人間にはサルトルのいうように、存在理由などありません。しかし、実存はここにあるのです。換言すればこれは、どこまでも自由ということ。楽器を音を奏でなければならない。ナイフをモノを切れなければならない。しかし、僕たちには「しなければならないこと」がない。裏を返すと、楽器を音を奏でていれば十全で、ナイフをモノを切れていれば十全です。僕たちには「これをしていれば十全」というものがない。これが僕たちが処せられている自由の刑なのではないか。そして僕たちはここからどうにかして逃走しないと苦しい。自分の本質というのは、神様が用意してくれるものではないので、まるっきり自由に生きろと言われると、何をしたら良いのかわからない。

 ここで僕が思うのは、人間は生まれながらに自由を享受してはいるものの、それを活用することは全くできず、それを活用するために必要なのが「適度な不自由」なのではないか、ということです。

 知人とキリスト教について話していたときに彼が聞かせてくれた説が面白かったので少し紹介します。宗教は英語で religion といいますが、religāre(固く縛る、後へ結ぶ)というラテン語からの派生だそうです。確かに宗教というのは人間の心や行為や関係をある程度縛りつけるものです。一方で、聖書では信仰を正しく行うものは自由になるという記述もあります(ヨハネ8章など)。縛り付けるものである宗教、それと反対の概念に聞こえる自由。この2つはどうして矛盾せずキリスト教というひとつの体系に組み込まれうるのでしょう。知人の回答は「宗教は重力のようなものだったのではないか」でした。僕たちは地球上のどこにいても重力に縛られて、不自由にも四六時中地面に押し付けられています。しかし、そのおかげで2本足でどっしりと立ち、自由にどこまでも歩いて行ける。建物も道も、動かずに同じ場所にいてくれるおかげで秩序が保たれる。その秩序のなかでは僕たちは自由に活動できます。もしも重力がなければ(それはそれで無重力を前提とした別の秩序があったのかもしれませんが)、何を拠り所にして僕たちは活動ができるでしょうか。今では自然科学が発達して、あらゆることが証明された客観的事実として認識されます。しかし、キリスト教が勃興した時代には世界のあらゆることが未知で、時にそれらは、災害や伝染病などというかたちで、人々を不条理に苦しめました。こうした状況から自由になるためには、宗教という「縛り」を受け取り、その中にある秩序に沿って自由に考え生きることが効果的だったではないかと推察します。何もわからずに飢饉で飢えるのと、宗教の教えに則って飢饉から逃れるために祈りや信仰などの行動指針が用意されているのでは、後者のほうがより自由ともいえます。

 同じことが僕たちの人生にも言えそうだと考えました。特に現代は、士農工商のような身分もなく、職業選択の自由が認められ、自分の人生を自分で決めて生きていける時代です。そうすると、自分は何をして生きていくのだろう、何のために生きているのだろうと、悩ましくもなります。武家に生まれたら武士になれば立派ということでそれ以上考えなくて済んだのかもしれない。自分の人生に納得できたのかもしれない。しかし、僕たちは自由です。そして自由がゆえに自由が享受できないのです。人生のような大それた話ではなくても同じです。例えば、学校の美術の時間に「何でも好きなものを自由に作ってください。時間も道具もいくらでも使っていいです。」と言われたとします。きっと多くの生徒が困ります。何を作ればいいんだろう?紙と絵具を渡されたら絵を描けばいいのかなと考えるでしょう。粘土を渡されたらどんな立体造形を作ろうかなと考えるでしょう。今週の2時間で完成させるとようにと言われれば、今回で下書きを終えて次回に色を塗ればいいなと考えるでしょう。しかし、何もかもが自由だと考えの拠り所がありません。重力がない状態なのです。例えば、休日に何をしようか決められないこともあると思います。どこか行きたい、何かしたいけど、これというものがない。ずっと家にいるのもなあとモヤモヤしている。そんな時に突然雨が降ってきたらどうでしょうか。「よーし、じゃあ今日は家に籠って撮りためていたドラマを全部観てしまおう」と割り切れたりする。このような経験には共感をできる人も多いと思います。

 生きるのが器用な人は、この「適度な不自由」を自分で設定するのが上手なのかもしれません。先の美術の授業の例なら、次の展覧会の日程を先生に確認して、そのテーマに沿った美術形式で、期日に間に合うように作ろうと自分に制限を課すとか、仕事の例だったら、自分の仕事にモヤモヤがあっても、結婚して子どもが出来てからは家族のためと思って割り切って頑張れるようになるとか。自由すぎて悩むというのは贅沢な悩みかもしれませんが、思いつめてしまうと根本的な解決が存在しないだけに、非常に深刻なものになりえます。自分にとって適度で善玉の不自由というものを見つけるというのは、対症療法に過ぎませんが、ひとつの対策といえるでしょう。不自由というのはどうにも悪いものだと断じられている節がありますが、それ自体が、正反対に思える「自由」にアクセスする前提条件でもあるというのは、意義深い発見です。

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