見出し画像

個人から分人へ アイデンティティを考える

最近「アイデンティティ」について改めて考え、議論する機会が多い。プロティアンキャリアの勉強会でアイデンティティを考えるチームにいる事や、3~40年以上前にCI(コーポレートアイデンティティ)に関わる仕事をしていた当時のコンサルタントの方とのとめどない語りなど知的な刺激があって楽しい。
プロティアンキャリアにおいてはアイデンティティ(自分らしさ)とアダプタビリティ(変化適合力)が統合され自分らしくありつつ変化に適合しながらキャリア形成をしていく、とされている。
アイデンティティは「自己認識、セルフアウェアネス、自分らしさ」で「自己の欲求や動機、価値観 興味能力、スキル・経験・専門性・学習力など明確な自己イメージ」が含まれる。
アダプタビリティは「変化対応力・適合力」で「キャリア危機意識、柔軟性・挑戦意欲、行動力など」が含まれる。
CIでは、「経済環境の変化によりそれまでの企業の在り方を再構築する」という意味から企業理念、ビジュアル、コミュニケーション、企業文化の刷新するというプログラムを行っていた。
●PAOS|CI/VIデザイン、コーポレートアイデンティティ、ブランド戦略、理念経営、イメージマーケティング戦略等のコンサルティング
横浜国立大学助教授 塙 忠弘氏は「CI計画ハンドブック理論編 1980年日本能率協会」で
●「存続性や一貫性を確保する手段」であり、人は「新たなアイデンティティに基づいてそれぞれのライフステージにおいて成長を遂げる。」としている。
●自分は何者であるのかという問いが生じるのは、人が今までと違う新たな環境への適応を迫られる時である。つまり自らの変革を迫られた時、自分自身の存続性や一貫性を確保する手段としてアイデンティティが求められることになる。これが自己同一性、つまり自分は自分であるということの本質的役割であろう。このようにして確立されたアイデンティティが新たな環境における人の行動を持続的に規定することになる。」
としている。40年前の議論が現代に通じている。
 
最近、アイデンティティチームで紹介された「私とは何か「個人」から「分人」へ 平野啓一郎 講談社現代新書2013」を読んだ。
引用すると
●日本語の「個人」は英語のindividualの翻訳で、一般に広まったのは明治になってからで、しばらくは「一個人」と訳されていた。Individualは、divide(分ける)という動詞に由来するdividualに否定接頭語inがついた単語である。Individualの語源は直訳するなら「不可分」、つまり「もうこれ以上分けられない」という意味で、それが「個人」7という意味になってくる。
筆者は「身体的な「個人は分けられない」が「人格」は分けられないのか」と疑問を持つ。
●たとえば会社で仕事をしているとき、家族と一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか?同窓生と合って酒を飲んでいるとき、恋人と二人でイチャついているとき、口調、態度、表情はずいぶん違っているのではないか。
●多様な顔を持つ自分がいるのは当然だ。場の空気を読んで表面的にいろんな「仮面」をかぶり、「キャラ」を演じ、「ペルソナ」を使い分けている。中心には核となる「本当の自分」がいる。自我は一つで、そこにこそ、一人の人間の本質があり、主体性があり、価値がある。だからウラオモテのある人、本音と建て前を巧妙に使い分ける人、軽薄な八方美人は嫌われ、なによりも「ありのままの自分」でいることが理想とされる他者と生きる以上、忖度しながら「本当の自分」と「表面的な自分」を使い分けていくしかない・・・・。
そこで平野氏は「個人」に対する「分人」という考え方を提示する。
たった一つの「本当の自分」などは存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。
●人間を「分けられる存在」とみなし、対人関係ごとの様々な「自分の集合体」とみなす。友人との自分、恋人との自分、仕事仲間との自分・・・はそれぞれ同じではないし、反復されたコミュニケーションを通じて、形成されていく。直接会わなくても、ネットのみでの交流でもあるし、必ずしも人でなくても、芸術や自然、動物などでの分人化が促される。
●ひとりの人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心は無い。個性は分人の構成比率であり、対人関係の変化(深耕や時間変化など)により形成され、そのスイッチングはオートマチックに行われる。
私は人には変わらない核(アイデンティティ)と、変化したり、発生と消滅を繰り返すサブアイデンティティがある、と考えていたが、むしろ「よどみに浮かぶうたかた」のようなものと考えたほうが良いのかもしれない。
平野氏は「愛」について、
「その人といるときの自分の分人が好き」という状態であり、「他者を経由した自己肯定の状態」とする。
ならば、「愛」に限らず「なにかに没頭しているときの自分の分人が好き」という状態が、フローであり、「強み」につながり、多様な社会においては「自分が好きな分人」をいかに多様に持つか、ということになっていくのだろう。
私はナニモノ?を固定的に考えるのではなく、場面、状況によって柔軟に変化させていい、という考え方は人生の幅を拡げる、と思えて楽しくなる。
 
平野氏の話はまだまだ続くので、興味のある方には是非お勧めしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?