見出し画像

作曲とは排尿である。(4/19)

今日も渡仏前の友達セイハローDAYで、(臼田)あさ美ちゃんとドライブがてらランチをした。ドライブがてらと言ってもあさ美ちゃんが運転してくれた車の助手席でひたすら喋り、カッフェに着いてもひたすら喋り、帰り道もこれまた喋りすぎてハグをすることすら忘れて「またね〜!」と来月も会うみたいな感じで軽薄に別れた。

私も相当なお喋りで、かつ、話題の飛び幅/振り幅は世界レベルだが、あさ美ちゃんも負けていない。でもとっ散らかって収集がつかないかというと案外そうでもなくて(自称なので怪しいが)、知らぬ間に「で、そういうことになったんだよね〜」みたいにちゃんと回収できているから不思議だ。

「とっ散らかってても好きなように楽しく話せば良い」というシンプルさは、気を遣いがちな私にとって非常に居心地が良い。話す内容もシリアスなもの(真剣な仕事の話とか)から女子校か?みたいなキャッキャしたものまで、枯れない源泉のように湧き出てきてくる。
秘湯を守る会に温泉側として登録申請したいくらいだ(自分たち評価が常に高め〜!)

それから、今日は新しい発見がひとつあった。

運転するようになって自覚的になったが、私は把握できる空間が一人称的というか、半径が狭いというか、スペースを広く想像できないところがある。
車を運転すること、ブレーキを綺麗にかけることに運転の楽しさを見出しているわけだが、一方で、角を曲がったり、サッと駐車することがとても苦手だ。
あれは、運転能力とは別の空間把握能力だ。

で、今日初めてあさ美ちゃんの運転を見たのだが、まるで自分を見ているような運転さばきであった。助手席で何回も窓を下ろしては「こっちはOK!ぶつからないよ〜」とか言いながら、曲がり角の何度かの切り返しを見る度にシンパシーを覚えたのだった。
え、あさ美ちゃんの空間把握能力をディスってる?と思われたかも知れないが、苦手なことは悪いことではない。苦手なことがあれば、得意なこともある。そんなの当たり前の話で、これはシンパシーの記録だ。

多くの人から「一緒に仕事(映画もドラマも)したこともないのに、なんでそこ仲良いの?」と双方言われがちだけれども、見た目に共通点はさっぱり見当たらなさそうながら、意外と似たタイプのような気がする。

良い友達を持てて幸せだな。次はパリで会えるかしら。

そんな私、連日大好きな友達に会ってるからというのもあって「日本が好き...私パリとか長期的にやってける...?」みたいなマリッジブルーよろしく渡仏ブルーみたいなのを罹っている。齢四十にもなれば、手放すのが怖くなるものも少しは持ってるのさ。

モチベーションを高めるために、VISAが一年ということはニ年目の更新は相当ハードだってことだ!と、まだ渡仏もしていないうちから、来年以降の生き残り術を考え始めた。そういうことを考える方が奮い立って良い。

ゴミの分別をしながら、生き残りアイデアをふと、ひとつ思いついた。人生がかかっているのでそれなりに脳みそもフル回転しているのかもしれない。

そうしたら途端にビビビときて、「あ、私、多分今曲書くんだわ」という感覚が、確信的に身体を駆け巡った。尿意みたいなもんだと思う。(次からインタビューの時に言おうと思う。「世武さんにとって作曲とは?」「そうですね、排尿ですかね。」)

一旦ゴミ袋たちを放ったらかしてピアノに向かった。

「○○してたらメロディが思い浮かんじゃってさ〜」みたいなかっこいいやつではなく、私の場合ピアノに向かう時点ではノープランである。ただ「多分、曲を書くんだろうな、今」みたいな感覚だけは分かる。実際に鍵盤に指を置くと勝手に音楽が出てくるので、この感覚には何かしらの根拠があるようだ。

「そうそう、これね」みたいな感じで、忘れないようにメモしたり簡易的に録音をした。ここまで作っておけばあとは芋づる式に出てくるだろ(言い方!)と勝算が見えた時点で一度作業を中断し、本来今やるべき作業=掃除と荷造り、へと戻る。

忙しくてなかなか曲が作れない時や、お仕事で制作をしている時などは野生的な渇きを感じて、時間を鋭角でこじ開けてでもソロ作品を捩じ込んだりする。

そしてそれは、便座に座ってお小水を世に放った瞬間の幸福感... やはりアレに似ているとしか言いようがない。

世武さんにとって作曲とは?
- そうですね、排尿ですかね。

そんなインタビューを受けてるように素敵な空間
私から見た景色が雑誌のインタビュー画像みたいで
ところどころ真剣な仕事の話題になった
オンもオフも魅力的なあさ美ちゃん
気づいたら土星になってるほど
神秘的な会話が繰り広げられた(嘘)
サターン!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?