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自己中心さを懐かしむ(6/29)

ここ数日はリヨンというフランス第二の都市?から友人が遊びにきていたので、結構忙しくしていた。ヨルゴス・ランティモスの新作『Kind of Kindness』を観ようって話をしながら観そびれたくらいには話に花が咲き、色んな時間帯に色んなシチュエーションで色んな話をした。

例えば10年前の私は今よりもっとアホだったし、”人間らしさ”という言葉で片付けられない類の自己中心的人間だったし、寛容さに乏しく、人の目を気にしたり好き嫌いが激しかったりした。要するに、自分のことを全く受け入れられない人間だったせいで、他者の足を引っ張っていたのだと思う。こうして言葉にすると酷すぎて、相手に合わせる顔もない。
よくもまあ、あんな状態で厚かましくも他者と共存していけると思ってたものだと我ながら開いた口が塞がらない。前歯の表面とかパサパサになりそうなくらい長時間口を開けっぱなしにしてしまうくらいの意味不明さである。

リヨンの友人は今回の移住以降に知り合ったのだが、お互い激しい人間的挫折を経て、それなりにずる賢く世を渡り歩きながらも最後は正直さや情を捨てられないで生きてきた者同士という感じで意気投合した。どんな関係性にも言えることかもしれないが、出会うタイミングの重要性は歳を重ねる毎に臓腑に沁みる。逆に言うと、タイミングが合わないのだから仕方がないという出会いも、そのままの形で肉体のどこかに残るのかと思うと悲しさや寂しさに飲み込まれずに生きていられる。諦めとは全く別の意味合いで、実らない人間関係もそのままの形で醍醐味みたいに受け入れられるようになってきた。生きていないとわからないことだった。だから生きていて良かったなぁとしみじみ思う。
若い時は何回も死にたいと思ってきたけれども。

今回遊びに来ていた友人だけに限ったことではないが、分け隔てなく人に優しくて、それが当たり前の人の立ち居振る舞いは、こちらが自分の度量の狭さに気まずくなったり落ち込んだりすることがない。真に優しい人の見分け方としてこれ以上分かりやすい物差しはないと思う。

ふわ〜としてそうで、人のことをよく見ている点も尊敬する。誰かの体調不良とか、抱える悩みとか、寂しそうにしている雰囲気とか、とにかくよく気づくのだ。末っ子特有の空気の読み方の上手さもあるとは思うが、それだけでもなさそう。

私も少しだけ、あれやこれや考えこまずに瞬間的に思ったことを実行してみようと思えたり、人に優しくありたいと思えたりするものだ。
自分を成長させてくれる人が近くにいるのは幸運なことだと思う。

街中ではフランスパンを齧るポメラニアンに遭遇したり(澱みないパリモチベ!(笑))、LGBTQ+のパレードやソワレがあったり、メトロの窓口でネットショッピングしている職員に無視されて切符が買えなかったりと、今日も今日とてパリらしい一日であった。

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