遠くから見えるゴミ (1/28)
行く先の道に落ちているゴミが視界に入った瞬間「あれはうなぎパイの袋!」と言った感じで、ひとりゴミ当てクイズをするのが習慣なのだが、だいたい予想外の正解が待っているので案外楽しめる。今日駅のホームに落ちていたのはうなぎパイの袋ではなく「ときどき並び方忘れちゃう 北関東に行ったよ!プレーンパイ!!」だった。うなぎパイとは縮尺が全然違ったなと自分の見る目に課題は感じたが、結果的に何らかのお土産的パイであることに違いはなかったため、それなりの充実感と手応えも感じる。ちなみに私は、もみまん(もみじ饅頭)、八つ橋、うなぎパイなど擦られすぎて贈与も避けられつつあるベーシックなお菓子をわりと支持しており、チャラついた新商品やネタものより王道を好む傾向にある。その点、同じ王道なのに「赤福餅」が飽きられずいつまでも崇められてる差は何なのだろうか。あの日持ちのしなささか、本物ぽさ(お土産レベルではないよ的な全国民の眼差し)なのか。うなぎパイっていいよね。
お昼頃渋谷のセンター街を歩いたのだが、後ろにいたカップルのうち女性の方が「犯罪者はだいたいお金がない人でしょ。失うものがないし、社会的制裁も受けないからできるわけで」と言っているのを「そうだそうだ!」と男性がしきりに応戦していて、そういう正論ぽい暴論世論が大嫌いだし、社会的制裁や法律や失うものがなければ私だって犯罪したいところだけどね!みたいな軽口が蔓延っていることがあなたの言う"だいたいお金がないに決まってる"犯罪を犯さざるを得なくなった人たちを苦しめているのではないか、と悶々とした。「普通」から零れ落ちた人たちを堂々と無視する姿勢。(勿論、罪は罪なわけだが)
「失うものがない」とか「社会的制裁がない」という間接的な加害発言に無自覚である人々にネット上では(一方的に)よく遭遇する(見かける)が、どこかあれらは「ネットのごく限られた空間で悪意の時空が歪んでいるだけで、多く見えるだけで実際は2,3人のしわざで、案外人間は捨てたものではない」と思いたい性善説派の私は、だから東京は疲れるから好きじゃない、という東京差別的な発想を引っ張り出しては「いや、それはそれで違うな」と自戒したりして、都会はとにかく忙しい。
人間は100%正しくはあり得ないし、実際に口にしていることと言葉の背景、その時の気分とか波、その人の持つ正義や優しさや本音とポーズなど、ありとあらゆる情報をなるべく瞬時に統合させながら会話しなければならないの。人が増えるだけ疲れるのは当然だ。人が増えても一人の重さは変わらないのだから。
私がこういう半永久的な連想ゲームにシナプスを酷使していることは世武日記を読んでくれている人には承知のことと思うが、色々な人の声を聞くこと、までは良いとして、それを正しく振り分ける難しさには定期的に苦しめられている。私の場合なんて、なんなら別に自分が誰かと会話しているわけではなく会話を耳にしているだけでこの有様なのだから「もう勝手にして」と呆れられても仕方がない。
先日の日記で年々芽生える恐怖心について触れたけれど、恐怖心とは知識や経験をただ重ねているだけの証拠。それらを消化して流用していくところまで行き着かないと、いよいよ身が重いばかりだよと考えながらぼんやり帰宅。(また出たぼんやり癖)
香菜(パクチー)が嫌いな人は、これがどうか三つ葉か芹でありますように...とお祈りしてしまうだろう量の葉っぱを載せたキクラゲとイカの卵とじ、そしてお蕎麦を頂き、あとは粛々とピアノと談話しておりました。
結局譜面書くのが嫌で嫌でねぇ... まずは演奏で固めてからかな?という牛の歩みもビックリなスローモーションで本日はおしまい。
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