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「好き」を解体してみたら…?

私は、自分の「好き」の感覚は、どうしても大切にしてしまうほう。

いつからそうなのか分からないけれど。
もしかしたら、生まれた時からなのかもしれないけれど。

大切にするというより、
「好き」以外は目に入らないという感じかもしれない。

子供の時のエピソードとして聞いたことがあるのは、
いつも行くハンバーグ屋さんで、
出てきたハンバーグに、私が手をつけなかったことがあったそうな。
どうしたのかと思ったら、そのハンバーグが冷めていた、と。

当時、何がそんなに嫌だったのか、もはや分からないけれど、
その冷めたハンバーグがどうしても嫌だったのでしょう。
一切、手をつけなかった、と。

それを聞いた時は、「一体なんて子供なの?!」と衝撃を受けましたよ笑。
さすがに今はそんなことはしないですけど、
でも、そういうような一直線なところがあるのですね。

だから、私がそんな風に大切にしてしまう「好き」って、何なのかなあと考えてみました。

例えば、大好きなゾウの置き物があるとして。

その大好きなゾウの置き物が、リビングの棚に置いてあって、
時々、目にすることがあるとして。
私はもうそれだけで、幸せなわけです。

それって、すごいことじゃないかなあと、
一体、どういうことになってるのかなあと、
思わずにはいられないわけです。

だって、その私の大好きなゾウの置き物が、私に何かしてくれてるわけではないんですよ?

ゾウの置き物は、ただ棚の上に置かれているだけ。

でも、それで私はハッピーになってる。

それって何なのかなーと、考えたところ…

何かが好きってことは。

あのゾウの置き物のカラフルな色使いがステキだなーとか、
あのゾウの置き物の目の丸い感じがかわいいなーとか、
あのゾウの置き物のフォルムが綺麗だなーとか、
そういう価値を感じているわけで。

そして、価値を感じているということは、そこから何かを受け取っているということ。

何かが好きってことは、その「好き」って感じた時点で、
それだけで、価値ある何かを受け取っているというわけ。

だから、好きなものの傍にいたら、
それだけで、いろんなものを受け取って、幸せを感じる、ということ。

もし、そのゾウの置き物が、勝手に歩いてどこかにいってしまって、永遠に会えなくなってしまったら、それは悲しいかもしれない。

でも、棚の上にいて、時々、私の目に入ってくれたら、ただ、それだけで嬉しい。

あのゾウの置き物が好きすぎて苦しいから、好きじゃなくなりたい、とか、
あのゾウの置き物が料理をしてくれないから、もう捨てるーとか、
あのゾウの置き物が私に連絡をくれなくて悲しいんだーとか、
そんな風になったら、「ちょっと、あなた、頭だいじょうぶ?」となるわけで笑。

でも、物じゃなくて、人に対する「好き」になると、
なぜか、そういう変なことになる。

だから、私はいつも思ってる。

ただ、好きなだけで、いいんじゃない?

もうそれだけで、たくさんの何かを受け取っているのだから。


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