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優しさ


優しさとは何なのだろうか
今認識しているこれが優しさなのかもわからないけれど、答えを求める気のない疑問が脳裏をかすめる

幼い頃は優しさと自己犠牲は同じだと思っていた
相手が喜ぶのが嬉しかった、たとえ自分に不都合な状況になったとしても、だ
今覚えば恐ろしいと思う、利他的ではない、他者に自分の意義を求めていたのだから

優しさがわからなくて人と関わることに受動的になった
求めはしない、求められれば答えようとしたけれどいつも決まって返ってくるのは「何を求めているのかわからない」という疑問の声であったように思う

相変わらず優しさはわからないけれど、時間の経過と共に
対象を選ぶようになった、優しさをかける相手を自分は選んだ
相手が、に加えてその状況の自分が好きか、を考えるようになった

好きだった、求められることが嬉しかった
そうしていないと自分を保てないほど自分に自信がなかった(きっと今もない)
何も持たぬ、何も生み出せぬ人間であることに気付いたからか
文字面以上の意味が込められた「人はひとりでは生きられない」という言い伝えからか

「あなたは必要がない」と言われることが怖かった、否、今もそうだ
自分を押し通すことはきっと難しくない、むしろそっちの方が得意まである
ただ、押し通したその先に自分はいても組織はいない
だから、優しさと題して組織を優先したのだろう

個人より組織の一員として自分を抑えることに限界を感じつつ
抑えることを諦めてしまえば組織から離れることになる
個人を考えれば離れることが得策だったけれど、わからない優しさを引き伸ばして残ることを選んだ。その反面必要ないと言われることに常に恐怖を感じていた

良くも悪くも思い込んだことは寄ってくるものだ
ヒタヒタとその恐怖は具現化していった
冷静に交通整理できる状態ではなくて、蓋をして見ないふりをした
それももう限界を迎えていて、これから色々変わるのだろう

ふと思う

自分の優しさだと思っていたわからないものは果たして必要だったのだろうか、と
むしろ最初から無いほうがことは上手く回っていたのではないのだろうか、と
そう思えば思うほどこのわからないものたちは存在しなくてよかったものたちであるという事実が浮き彫りになる、そのことがひどく虚しい
もちろん失われた時間、ものたちは戻ってこない
優しさの影に消えていった自分も戻ってはこない

数多に人が存在するこの惑星で、生涯巡り会う数はひと握りにも満たない
後悔は無くとも、この選択は間違っていたのだろう
それがあなたの優しさであると誰かが言うけれど、これが優しさであるのか
これが優しさであっていいのか、空回りじゃないか

結局は幼い頃から何も変わっていないのだ

自分は優しさがわからなくて、きっとこれからもわからない

たぶん、わからなくていい

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