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リモートワークは「帰れない」

サラリーマンになって約一年が経つが、仕事中に帰りたいと願わなかった日は一日たりともない。その思いは会社に着いた途端、いや、前日に退勤した時点で既にはじまっている。土曜日の昼にすら月曜日の退勤を願う僕の生活は、もはや帰りたいという祈りを中心にまわっている。

だからこういう情勢になって、リモートワークが導入されると聞いたとき、正直にいうと喜びを禁じえなかった。会社に行かない。それは無上の祝福であり、人生の豊穣である。

労働である以上嬉々として、というわけにはいかないが、平素よりは憂鬱の度合いが低い状態で勤務を開始した。水曜日、朝の十時。埼玉の郊外は静かだ。マンションの五階にはやわらかな陽光が射し、時おり住宅街を抜ける車の走行音が聞こえる。なんと穏やかなことか。こんな愛おしい空間が世の中にあったというのか。

敵意に充ちた満員電車、低い天井のもとにずらりと敷き詰められたデスク、ブラインドの降ろされた硝子窓、無機質な蛍光灯、ため息、舌打ち、怒号。やさしい陽射しにあふれたこのリヴィングルームは、それらとはまるで無縁だった。

のらりくらりとメールを返していたら昼になった。少し眠い。社食で慌てて白米をかきこんだ記憶が幻に思われるほどゆっくりと、パンを食べた。それでもまだ時間があるので、ソファでワイドショーを見ながらうつらうつらとツイッターを追い、歯を磨いた。

午後を迎えてもまどろみに引きずられたまま作業をしていたが、不意に面倒な依頼がやって来た。直感的にやりたくないと思った。そうして心のなかでつぶやいたのである。ああ、帰りたい、と。

帰りたい? 否、おれは既に帰っている。というか帰るまでもない。ここはおれの家なのだ。帰るまでもなく帰っているのだ。ところが脳はしきりに、帰りたいと叫んでいる。

ここにひとつの、大いなる混乱が生じた。既に帰っているのに、帰りたいのである。会社を出て家に帰るということは僕にとっての最大の拠りどころであり、もはや出勤することの唯一の目的が、退勤することだった。少しでもいやなことがあれば退社するその瞬間を思い浮かべ、それだけを頼りに業務に取り組んだ。帰りたいと祈ることで救われてきた。だから僕はリヴィングルームにいながら、今日も帰りたいと叫んだのだ。

ところが、僕は既に帰っている。目的は常に達せられているのだ。僕は唯一の目的すら失なってしまった。救いの手段は残されていなかった。このことはまったく予想外だった。穏やかなはずだった午後は突如としてもの悲しい狂気に見舞われた。

仕方がないのでリヴィングルームを仕事場と見立てて、業務が終われば自室に帰るというかたちで自分を納得させた。そうして一週間が経った。いまはパソコンをもって自室を出ることがひどく憂鬱だ。やわらかな陽射しに包まれたリヴィングルームは、もうない。

一銭でも泣いて喜びます。