崩れ行く学校教育


昔のテレビドラマのワンシーンで、ほっぺた叩いて「目を覚ませ!」みたいな、クサいシーンというのがよくあった。当時、それを見て「体罰だ!」と思った人は少数派で、むしろそれが何を意味した行動であるか、見ている人にも共有されていたと思う。それはテレビドラマだけではなく、生活の中でも、あるいは学校の中でも、是非はともかくとして、意味するものがある行為として受け止められていたと思う。

私はかつて、10年ほど高校教師として勤務していた。そのころにはまだ教育としての知恵が受け継がれていたように思う。たとえば、「叱る」ということはその代表格といっていいだろう。罪に対して、それを償わせるための罰として「叱る」のではない。やった行動に対して、平等に叱っていたわけではない。それは叱られる側の受け止められる度合いやタイミングを見計らって必要なタイミングで心理的なインパクトを与えるための一つの方法として取り入れていた。

もちろんその全てが正当化される理由のあるものだったり、適切なタイミングだったかと問われれば、かなり違っていたかもしれない。が、その失敗も含め、その保護者のほうも、意味があっての行動だということで、親が子どもを諭すことで成り立っていたと思う。ところが現在はこういった知恵はなくなり、場合によっては体罰、暴力行為、精神的に追い詰める行為だと。逆に、罪に対しては厳罰をしろ、という風潮である。

現在、私は、発達障がいや軽度知的障害、不登校児専門の学習塾で指導しているが、特にこういった子どもたちに対しては、医療関係者や心理士から「叱っても効果ありません。子どものいいところ見つけてあげて褒めて育てましょう。」という関わり方が強調され、学校でもそのように接している。ところが、現実、どうなっているかといえば、離席や不適切なタイミングでの発言といったような学級崩壊状態に陥っている。通常のクラスでも子どものかかわり方は同じ傾向になってきているため、似たような傾向にある。

果たしてこれでいいのだろうか?私のところには、学校では椅子に座って授業に参加でいない子どもたちがたくさんいる。しかし、誰一人として、離席したり、私語をする生徒はいない。それは半ば強制的に学習をさせている、という側面はあるものの、強制的にでも学習を継続していると、これまでできなかったものができるようになる。できるようになると、こちらも褒めるし、何よりも子ども自身ができるようになったことに対して実感しており、素直に喜ぶ。という循環のなかで学習が成立している。

「子どもたちの行動は、何かのお困り感があるため、それを軽減するための行動。周囲はそれを受け止め、理解してあげることが大切である。」と言われる。私もこれに反論はない。ただ、その理解というものの実態が、単に、今しなければならないことを免除してあげているだけになっていたり、今してはいけないことに目をつむるだけになっていないだろうか? 今だけが強調されすぎているように思われる。未来への方向の時間軸という物差しが欠けてはいないだろうか。今あるお困り感が今後、軽減できる何かしらの手立てがあるのであれば、それは、取り組ませてみる価値はあると思う。

軽度知的障がいを持つ彼らに、二次方程式まで教えたりしているが、将来、社会で彼らが使うことはないだろう。いや、通常級で学んでいた普通の人の9割以上が、仕事で使うなんてことはない。それでも中学3年で学習をしている。やらないよりやった方が何かしらの意味があるかもしれないが、その内容の習得以上に、習得が困難だと思われるものに対しても、取り組み方や工夫、努力によってそれができるようになるという過程そのものが学びあり、生きるということの入り口だと私は思っている。

学校が教育機関として存在し続ける意思があるのであれば、教育とは何か?生きることとはどういうことか?ということを子どもや保護者、あるいは社会に発信し、コミュニケーションを図り続けていかなければならないだろう。でなければ、平手打ちが暴力としてしか評価されなくなったことと同様に、本人の意に反して勉強させられることは自由を奪うことだという見解が常識に代わっていくだろう。そう遠くない未来に。


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