諸国霊社巡拝:有礒正八幡宮(富山県高岡市横田)

ご祭神は海の守護神 有礒神、綏靖天皇と八幡神

 富山県高岡市横田町に鎮座する有礒正八幡宮(ありそしょうはちまんぐう)は、式内社でこそありませんが、悠久の歴史を誇る霊社です。公式ウェブサイトに掲載される公式由緒によると、もともとこの神社は、日本海沿岸に鎮座していた有礒宮という神社がさまざまな歴史的過程をへて遷座していき、高岡市川原町に鎮座していた横田正八幡と合座され、さらにその合体してできた有礒神社正八幡宮も、川の氾濫によって場所を替えて、ついに現在の地に落ち着いた、とのことです。

今は幻の高岡城の門につかわれた大木

 公式の由緒にあるように、この神社の旧社地にあった大木が高岡城の門の建設にあたって使用されたといいます。そこで、この由緒についてくわしくみていきましょう。今回見つけることのできた史料には、次のようにありました。


一、当社八幡宮は、その創建された年代は存じ上げてはおりませんものの、慶長十七年までは神社は横田村領、ただいまの高岡川原新町に立っておりましたのですが、横田川(現在の千保川)にて川崩れがあり、同村の西の方へ神社が移転しました。川崩れとなって、神社に樫(かし)の大木がありましたのが、川原で土砂にうもれてしまっているという由を微妙院様(加賀藩二代藩主前田利常)がお聞きになられて、伊藤内膳殿が取り仕切って慶安元年に掘り出され、高岡の古城のご門のご用木になりました。大木でしたので、この樫一本だけで門をつくることができた、というように承っております。今ございます社は、横田の氏子たちの手によって建立されました。私たちは百姓たちから寄進された土地に住まいしております。
                  越中射水郡横田村社家 上田伊勢守
   貞享二年六月十一日
(『神道大系』「越中国神社由来」におさめる書上より試訳)

 これは、貞享二年(一六八五年)にこの神社の神主、上田伊勢守が加賀藩に提出した書類です。おそらく、由緒に載るこの逸話も、この文書からとったものでしょう。当時、有礒正八幡宮の位置する高岡市は加賀藩領でした。この門は残っていませんが、さぞや立派な門であったことでしょう。

名前の由来はいかに

上記ホームページの由緒には、「八幡宮に「正」の文字がつく理由としては、その国で一番初めに八幡様を祀った神社であること、または宇佐神宮からの直接の勧請であることなどが挙げられますが、当神社にはその詳細は伝えられていません。」とありますが、いったい事実はどうなのでしょうか。まず、この神社が越中ではじめにできた八幡宮だという証拠はないようです。「文明年間に神主上田丹後守によって礪波山より勧請された」とのことですから、もともとの勧請もとは現在の埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)なのでしょう。そうであれば、この神社にこそ「正」の文字がないといけません。また、砺波山から勧請されたのであれば、宇佐からの直接の勧請でもありません。社名の起源は、実際のところはまったく不明ということでしょう。なお、富山にはこのほかにも古い八幡宮がありますが、射水市八幡町にある放生津八幡宮は天平十八年、当時の越中国司の大伴家持(おおとものやかもち)によって宇佐の八幡を勧請して建立されたといいます。

まとめ

以上、簡単にこの神社の歴史をご紹介しました。近隣には、古い町並みの残る金屋町があり、散策にはうってつけです。本記事の趣旨と離れますが、おまけ。私が以前訪れた時には、「将来軒」という中華料理屋さんに入りました。まちの中華屋さん、といったたたずまいで、料理は安くておいしくもりだくさんでした。またこのまちを訪ねる機会があれば再訪したいです。こうした昔ながらのお店がいつまでも続いてほしいものです。

参考文献
高瀬重雄 校注『神道大系 神社編三十四 越中・越後・佐渡国』(神道大系編纂会、1986)


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