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良いことに気がついた

 あのですね、弊僕にはライトな希死念慮が度々あるんですけどね、もしも実行に移すとしたら、という妄想にシフトして、どうせならインドネシアンシーネットルに刺されて——たい。

 でも、それは烏滸がましいという感情が——たいと思うことの邪魔をする。

 ↑は、念慮するに毎回留まる(だから生きている)落とし所として、丁度いい。というのも、誰かに希死念慮について打ち明けたならきっと、慎重に返事を選べる人(僕との親密度に関わらない)は、上記のような状態の僕に対して良い言葉をくれると思う。その言葉をとてもありがたいと僕は思う。
 ありがたいからマズイ。言うなればまさに、勿体なきお言葉、というやつだからだ。途端に、お腹いっぱいのふりをしてもう十分ですと言う。ふりをして、と言ったが本当にたった一言を投げかけて貰うだけで「足る」。
 一度そうなっておいて、後から気を使わせた申し訳なさが押し寄せて、せっかくもらった「足る」状態を爆速で消費して燃費の悪さに辟易する。

 悪いことにも気がつく。僕は別に、慎重に返事を選べる人から、実際に良い言葉を貰えていない。慎重に返事を選べる人に限らず、僕に対して敵意を抱いていなくて、無理やりでもなく良い言葉を口からまろび出せることをしたことがない。婉曲せずに希死念慮が現在進行中の旨を誰かに言えたことがなing。

 閑話休題、面倒臭いことに、弊僕は(今更だが、弊僕という一人称について、自分が考えうる謙り方をしている。見守ってほしい)せっかく良い言葉をもらっても、上手く自分に染み込ませる前にべしょっと零す。いつかは上手くなるかもとは思う。

 インドネシアンシーネットルに四肢やら胴体が絡まれたところで、——切れるとは言えなさそうなのはさておく。
 気づいた良いことというのは、「烏滸がましくて辞めるという建前」は強いカードであること、だ。烏滸がましいは別に勿体なきものじゃないし、浪費しようにも罪悪感などないし、そも浪費しようもない。

 謙遜は使いどころを間違えれば痛い皮肉だし、誰かに対しての失礼にもなりうる。だが、希死念慮抱いている精神の有事、頓服に流用することをこれから試していきたいと思った。

 話はこれでおしまい。サムネイル画像は自分が撮ったインドネシアンシーネットルにしようと思ったが、烏滸がましさを正しく感じるために、人様の写真をお借りした。とても優美で、首を絞める真綿の擬クラゲ化みたいだと感じる。使用させてもらい大変烏滸がましい。そして、とてもありがたい。

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