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異言について(夢を見た)

キリスト教には「異言」という概念がある。
イエス・キリストが復活してしばらくして、ペンテコステの日に、信者たちが集まっていると、聖霊が下り、信者たちは異国の言葉を話すことができるようになった。これで異国の言葉で語れるようになった信者たちが、様々な人に、様々な場所で宣教できたというのだ。

使徒言行録 2:1-4 新共同訳
[1] 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 [2] 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 [3] そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 [4] すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

基本的に、異言と言えばこの事を意味するのだが、しかし異言にはもう一つの意味がある。
いわゆる「天使たちの言葉」、御使いの言葉としての異言だ。

コリントの信徒への手紙一 13:1 新共同訳
[1] たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

コリントの信徒への手紙二 12:4 新共同訳
[4] 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。


むしろ現代においては、前者の意味での異言は少なく、後者の「天使たちの言葉」としての異言を語る人が多い。基本的に異言で祈ったりするのは、聖霊の働きを重視するペンテコステ派とか、メソジスト系の教会だけだ、みたいなイメージを持っている方も少なくないかもしれないが、少なくとも僕の周りでは、そうとも言いきれない。
僕の母教会はプロテスタントの改革派であるが、そこに通う母もまた異言で祈ることがあるし、母以外にも異言で祈る人間が何人かいる。

異言で祈るとなにか特別な効果があるのか?と言うと、当然ながらこういう問題で納得できる説明に出会えることはとても少ないのだが、知り合いから聞いた話を紹介しておく。
異言で祈る事をする知り合いから聞いた話によれば、異言で祈ると、普通の言語で祈るよりも、神のおわす「第三の天」に祈りが届きやすいのだと言う。

ここで聖書における「天」について説明しておく。
「第三の天」とは神や天使たちがいる「天」で、物理的な意味での天とは異なった別世界のようなものだ。神道で言う高天原に似ている。この語彙は先に引用した第二コリント12章の2節に見られる。

コリントの信徒への手紙二 12:2 新共同訳
[2] わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

第三の天があるのなら、第一、第二の天もあるのかと言うと、聖書には直接的にそのような語彙は見られない。しかし、パウロがわざわざ第三の天と言ったあたり、聖書において天という概念に複数の種類が認められていたことがわかる。実際聖書を読んでいれば、「天」という概念に文脈に応じて複数の質があることを認めることは容易いし、創世記一章において、神による天地創造がなされた時点から、天は「シャマイーム(שמיים)」という複数形で記されており、サンヘドリンとして、ユダヤ教のエリート的立場にいた過去のあるパウロにとっては、常識であったのだろう。
第一、第二の天について、僕が耳にした説明では、第一の天は、この地上の鳥達が飛んでいる天であり、第二の天は、悪霊(堕天使)や天使たちが活動する霊的領域で、それは大気圏外の宇宙の事だ、という説明をよく耳にする。

話を聞く限りでは、第一、第二、第三の天は、空間的な制約があるようだ。基本的に、第一から第三の天に到達するには、第二の天を経由する必要がある。
彼は、普通の言語で祈ると、「第二の天」において、祈りが悪霊たちに邪魔されることも少なくないのだ、と言った。しかし、聖霊に満たされ、異言で祈ると、空間的な制約を超越して直接的に届くのか、はたまた異言だと邪魔できないのか(そこら辺の説明があったかは忘れてしまった)、「第三の天」に祈りが届きやすいのだという。
まあこんな感じの説明だった。

ここまで語ると、異言が人間の自由に使える言語の一種であるようなイメージを与えてしまいかねないので、説明しておくと、異言は、祈祷者の意思を反映したものとして語られるとは限らない。聖霊から促され、御霊の「呻き」として聖霊が祈祷者を通じて異言を発する、という説明が感覚として近い。

コリントの信徒への手紙一 14:2 新共同訳
[2] 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。

またそれがただの祈りとは限らず、聖霊を通して、啓示的な内容が異言で語られる事もあるようだ。

このような聖書箇所がある。

コリントの信徒への手紙一 12:10-11 新共同訳
[10] ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 [11] これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

ここでは信者達を通して働かれる、聖霊の働きの種類が説明されていて、異言はその一種であるとわかる。
僕は、預言をする人と、異言を語る人と、奇跡(癒しの賜物がある人だった)を行う人は見た事があるのだが、霊を見分ける人と異言を解釈する人は見た事がない。異言を話す人に対して解釈する人の供給が間に合ってない。そういう場合は、パウロは第一コリント14:26-28で、公の場で異言を語る意味はないからやめろと言っている。実際先程書いた異言の説明をしてくれた人も、公の場(教会も含まれる)で語ることはない。
でもペンテコステ派の教会とかでは普通に異言で語りまくってたりするみたいだ。まあいろいろだな。


異言はゼノグロッシアとグロソラリアという言葉で一般化されている。ゼノグロッシアは習ったことのない異国の言葉を流暢に話す現象で、最初に説明した方だ。グロソラリアは興奮状態で意味不明の言葉を発する現象で、ほかの宗教でも見られる。ハイチのブードゥー教みたいな呪術的な伝統を色濃く残す宗教に多いみたいだ。僕が現代の教会によく見られると言った方だ。
僕はゼノグロッシアの方は見た事がないのだが、アメリカかどっかの海外の教会の集会で、異言で祈っていると、突然外国人の信者が(当然日本語は話せない)流暢な日本語で神を賛美し始めたのを聞いた、という話を人づてに聞いたことがある。


なんか締まらないが、異言の説明とそれに対する僕の感想はこの辺で終わりにしようと思う。

昨日の夜僕は異言に関する夢を見た。
最初はこの変な夢のことを語ろうと思ってたのに、異言というものが特殊な概念だったが故に、異言について長々と語ることになってしまっていた。

それはこのような夢だった。

突然母が異言を語り始めた。「ンー」と耳鳴りのような骨に響く音を発し、それからその音に上乗せするように異言を語り始めた。それを聞いていると僕の胸にあの熱感が滾ってきて(キリスト教徒ならわかるだろうが、賛美してる時とか、祈ってる時とか、教会の大人たちから按手された時とかに感じるあれだ。)、僕も異言を語れそうだと思った。僕も母に倣ってそうするが、うまくいかない。
母は、「もっと聖霊を受け入れて(繋がって?)満たされろ」みたいなことを言ってきた。しかし僕はそうできなかった、頚椎と頭頂部の辺りで熱感が滞っているような感覚が邪魔をしていた。その辺で場面が変わって夢が終わった。

首の感覚は多分最近スマホ首みたいになってるからそれが影響したのかもしれないけど、首と頭頂部とは、なんかクンダリーニのような、ある意味オカルティックな夢だ。
異言を語る前に「ンー」と響く声を発するのもなんというか呪術的発想だ。
僕は今までこの「聖霊」というやつにしっかりと向き合って来なかったから、なんらかの啓示なのかもしれないな。さてどうなるのだろうか。

※画像はファン・バウティスタ・メイノ『ペンテコステ』

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