差別と区別

差別と区別の違いは、簡単なようでとても難しいものだと思います。

例えば、個人的な経験で言えば、弟たちは小学生の頃から友人の家に泊まることを許されていましたしたが、私は中学校の部活の合宿ですら両親に嫌な顔をされていました。理由は、私が女だから。「男は何かあっても妊娠しないけど、女は妊娠したら人生が終わるから」、そう言って行動を制限されていました。

結婚したとたんに「人生が終わる」はずの妊娠を両親から切望される意味が、今も全く理解できないのですが……それはさて置き、私が幼い頃から「女だから」ということを理由に行動を制限される一方で、弟たちにはない期待をされてきました。

例えば、いとこや友人が遊びに来た夜、弟たちが寝息を立てる中私だけが母に起こされ、「片付けが終わるまでは寝てはいけない」と、一人後片付けをさせられていました。みんなで遊んだはずなのに、私だけがなぜ睡眠時間を削って片付けをさせられていたのか、35歳を過ぎた今でも全く理解できません。

また、小学校の高学年になり、保健室の養護の先生からきちんとブラジャー等の下着を身に着けるように親ともども指導を受けても、「小学生にブラジャーは必要はない」と、母は決して下着売り場へ行こうとはしませんでした。見かねた叔母や父がその後、一緒に買い物に行ってくれるようになりましたが、母と下着を買いに行ったことは現在まで一度もありません。もちろん、そんな母親ですから、私が初潮を迎えた時は「もう始まったの?」と、眉間に深いしわを寄せて、大変不快な表情を浮かべていました。

一方弟たちはというと、下着はもちろん、普段着や部活着なども欲しいだけ買うことができていました。母曰く、「友達と違う服装でいじめられたりしたら可哀そうだから」ということでした。私には「友達なんかいなくても人間は死なない」と豪語していたのに……。

そのことを母に訴えると、「女の子なのだから自分で繕うなり、服を作るなりすれば良い」と言われました。おかげさまで裁縫や編み物は得意ですし、料理も大好きですが、弟たちには許されることが私だけ許されないということの繰り返しは、私の自尊心を傷つけるには十分すぎるものでしたし、女に生まれた自分を恥じる気持ちが芽生えたのも仕方のないことだと思います。

それでも母は(もちろん父も)、私たち姉弟3人を全く同じように愛情をかけて育てたと言い張るのです。両親の主張が確かならば、私は被害妄想の頭のおかしい人間なのでしょうか?

まぁ、私の経験はさて置き、男女の体の構造が違うということは明らかだし、そこを区別するなと主張することは確かに無理があると思います。妊活するようになって特に感じましたが、妊娠できなかった時の悔しさは夫婦ともに感じるものですが、「自分の行動が悪かったせいでダメだったのではないか」とか、「そもそも自分の体質がダメなせいで妊娠しないのでは?」とか、考えてしまいます。そんなことがあるので、買い物の際に重いものは旦那ちゃんにもってもらったりするなど、アンチフェミニストの方から「女を盾に旦那だけに重い荷物を押し付けるな」と言われそうな状況ですが、夫婦間で話し合ってお互いの家事やその他の分担に差をつけることもあります。このような業務内容の差を差別だと言われてしまうのは、なんだか違うような気がするのです。男女間の筋肉量や体力の差、妊娠を望む場合や、子育ての際に生じる差(子宮外妊娠等のリスクを負うのは女性側だし、出産時の痛みや、産後の授乳等の負担を追うのも女性。一方、男性は一人で家計を支えるというプレッシャーに向き合うことになるし、現在はさらに育児への積極参加も求められている等)について論じたりすることは差別とは違うものだと思うのです。

説明をするのが難しいのですが、こうしたことは男女間の機能の違いを述べているだけ、つまり区別をしているだけだと思うのです。例えば、黒人は他の人種に比べて肌の色が黒い。猫は犬に比べてきまぐれだ。といった、その特徴を述べていることに関しては差別ではないと思うのです。(「女性はヒステリーだ」と言われると腹が立ちますが、「女性は男性に比べると月経周期によってホルモンの影響を受けやすく、情緒にムラが生じやすい」とい事実を述べることは、男女間の差を理解する上でも必要な情報ですし、その情報を共有することで男女間の相互理解が進むのであれば、積極的に周知されるべき差異であると思うのです。

もし、そのような差異をゼロにして、男女間の完全平等を目指した場合、極端な例ですが、妻が妊娠した場合はつわりと同じような症状を引き起こす薬を夫も服用しなければならない。お腹が大きくなるにつれて、同程度の重りを身に着けて日常生活を送らなければならない等、メリットだけでなくデメリットもすべて共有できるようなシステムを作らなければ、平等は達成できないということになってしまいます。

夫婦ともつわりで共倒れになるシステムでは、その後子どもを育てる資金や体力を担保することができません。そんなバカげた平等を達成することは、社会にとっても、個人にとっても、デメリットしかありません。

では、差別とは何でしょう?区別と差別の違いは何でしょう?

私個人の意見ですが、その違いは、選択肢の有無にあると思います。

女に生まれようと、男に生まれようと、好きなことを学び、好きな時間に外出し、好きな職に就き、結婚をする・しない、子どもが欲しい・欲しくない、出世したい・したくない……といった選択を、自分自身とパートナーの相談と意思決定に基づき選択していけることが、差別のない平等な社会の姿なのではないかと思います。

例えば、現在の日本では異性婚が法律で認められており、異性愛のカップルは、法律婚をするか事実婚をするか選択することができます。しかし、同性婚が認められていないため、同性愛のカップルには、法律婚をする・しないという選択の機会が認められていません。「ゲイ」、「レズ」といった言葉で同性愛者を否定することももちろん差別に含まれます。しかし、それは彼・彼女らが異性愛者と同等の選択肢を与えられていないから、お互いを区別する言葉が差別的な意味を持つのではないでしょうか。同じように法律婚か事実婚かを選ぶことができ、子どもを持ったり、その他さまざまな権利が異性愛者と同性愛者どちらにも認められていたのであれば、「ストレート」、「ゲイ」「レズ」という言葉は、その人をカテゴライズするためのただの記号になるはずです。

かつて選挙権を持っている人が「税金を納めることができる男子」とされていた時代は、「税金を納められる裕福な人とそうでない貧乏人」、「税金を納めれば選挙権を得られる男性と、どうあがいても選挙権を得られない女性」という差別がありましたが、現在では成人であれば貧富や男女の区別と関係なくみなが選挙権を持っており、投票する・しないを選択することができます。

このように、みんなが同じだけの選択肢を持っており、その中で自分の好きな道を選択できる社会こそが、差別のない平等な社会なのではないかと、最近特に考えているのです。

こう考えてみると、「女性蔑視にならないようにどう話したらいいか?」なんて考えるよりも簡単だし、何が正解に近いのか、シンプルに考えることができるのではないのかと思ったのです。

ちなみに、大学のゼミで指導教官が、「誰かを自分の下に置くことはもちろん、上に置くことも差別なんだよ」と言っていました。当時は理解できなかったのですが、「女性は子育てをするために同時に色々なことを行う能力が備わっており、男性より優れている。だから男性社員の些細なミスは大目に見てあげて欲しい」といった上司や社長の言葉を何度も耳にし、「優れている」と言いながら大変な仕事を特定の人に押し付けることも差別なのだと理解するようになりました。(「優秀だから他の人を許しなさい。他の社員よりきつい仕事も頑張りなさい」と、その人が自分の望む業務を選択する余地を奪っているのです。)

私自身、100%差別的な発言をしない人間かと言えわれたら自信はありません。この文章で同性愛の方々について少し触れましたが、当事者の方々がこぼ文章を読んで深く傷つく可能性もゼロではありません。しかし、できる限り自分をはじめ、色々な人にとって選択肢の多い社会を作ること。それが実現できたら、悪い社会にはならないと思うのです。

私は女だからと「英文科以外への進学は認めない。理数系に進学して嫁に行けなくなるくらいならば学費を出さない」と親に言われ、仕方なく大学の文系学科に進学しました。大学に通わせてくれたことだけは親に感謝していますが、全く職場で評価されない現状があるので、理系学部に進学していたら……と夢想することが辞められません。もちろん、理系に進んでもワーキングプアだったかもしれませんが、少なくとも「親のせい」ではなく、「自分で決めた道だから」という覚悟を持って生きることができたのではないかと、どうしても考えてしまいます。

もちろん自分が親になった時は、自分の子どもの選択肢を狭めるような親にはなりたくないし、その子が生まれ持った性別や、性自認によって社会から選択肢を奪われるような状況にもなって欲しくないと切に願っています。「差別はいけない」というネガティブな言葉ではなく「選択肢や可能性を広げられる社会」を目指していけたら、もう少しだけ息のしやすい世の中になるのかな?と思ったりするのでした。

自分の中で確信に近いものがあると思ってこの記事を書き始めましたが、まだまだ推敲が必要なようです。これからも似たようなテーマでダラダラと文章を残すと思いますが、気長にお付き合いくださいませ。

とりあえず今日はお休みなさい。

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