7/19日記 自分とはもっと複合的なものだ
自分を見失っているここ最近だ。
理由のひとつは、前のnoteでも書いたように、今までがんばっていたことや、今がんばりたいことがなくなってしまったから。もうひとつは、対人関係が減ったから。
コロナ禍で、約3ヶ月、全く家族友達と合わず、交流もほぼTwitterのみ。そこそこ打ち解けていたバイトは休業になり、全く打ち解けていないほぼ一人業務の販売バイトを続ける日々。
全然ニコニコしたくなんてないのに、丁寧にニコニコと見知らぬ人々と接し、同僚とは一日3分程度顔を合わせるのみ。そして大して働いてもいないのに疲れ果て一人帰路につきネットを眺める。そんな日々を3ヶ月続けて、かなり気が狂いかけていた。
「自分は、どこだ?」
Twitterやnoteに現れる自分は、現実の自分とはなんだか違う。文章だし、書いたことが全部じゃない。そのときあったおかしなことも言ったりするが、なんだかもっと内面的なことが多い。
かなり人見知りのわたしは、毎回3分程度しか仕事として顔を合わせない人とフランクに喋ることなんてできない。対仕事用の自分。
家族や仲のいい友達といっしょにいるわたしは、もっと朗らかで、天然で、おもしろくて明るい人間だったんじゃないか?もっとおバカで楽しい人間なんじゃないのか?と、過去の記憶を遡ろうとしても、無意識の自分のことはよく思い出せなくて、あやあふやだ。だいたい、ここ最近のわたしはそういう人間だったかもしれないけど、やっぱり本質的には根暗でコミュ障で真面目な性格だ。
わたしは、どこだ?
他人といるときの自分がわたしの全てではないし、一人でいるときの自分がわたしの全てではない。「わたし」は、もっと複合的なのに。「あの友達とのわたし」「この友達とのわたし」「家族とのわたし」「このバイトでのわたし」「過去のわたし」があってこその「わたし」だったのに。全部が同じじゃなくていい。相手に対して振る舞いを変えることは、わたしにとって必要なのだ。自分を守るためにも、自分や相手が楽しくあるためにも。だけど、どれかひとつが大き過ぎたり、どれかがなくなってしまっては、「わたし」じゃあなくなってしまう。何かに対して自分を抑圧しないといかないことが「自分じゃなくなる」ことじゃないと思う。何かに対して自分を変質させて現れた自分も、また「自分」だ。でもどれかひとつになったら大変だ。何事も、大事なのはバランスなのだ。そんな中、「未来のわたし」はどこにいけばいい?
やりたいことを奪われて、じゃあしばらく何をいちばんに生きていくのかもまだ決まっていなくて、未来のわたしはどこにいけばいいんだろう。今のわたしは、過去の自分から抜け落ちたものが多すぎて、バランスが取りきれない。かなり不安定だ。崩れた部分を埋めることが、未来の自分はできるんだろうか。
不安定なまま、時が過ぎていく。自分がわからなくなっていく。自分を失っていく。
そういった意味でコロナがこわい、こういう状況を作り出すことがこわい。友達と会うことのリスクを最悪の想定で考えてしまうと。リモートで会ったときの遅延や環境による盛り上がらなかったときのリスクも怖くてそれもできない。このネガティブとコミュ障が引き起こした最悪の状況。家族のもとへ帰るしかないのか。さいあくだな、毎日。さいあくしかないじゃないか、毎日。
同じノートパソコン、8年使ってます!