わたくしにとっての楽しみ方
私が初めて“私専用〟という名目でカメラを手に入れたのは、2015年だった。
それまでにデジカメを一台所有していたが、当時働いていた店での物撮り用だったので思い入れも薄くて使わなくなってすぐ友人に譲った。
すぐに物を溜めてしまうので、なるべく必要がないと思う物は譲るようにしているからだ。
で、2015年。
どういう経緯でその“私専用〟を手にしたかというと、、
10年来お付き合い 同棲をしていた彼氏が若い子と浮気をしたのだ。
それはそれは衝撃で。
それはそれは苦い思いをした。
同棲をしながら、その子とも暮らし始め器用に二重生活を送っていた。
知らずに半年が過ぎ←鈍い。
その子から初めてのコンタクトがあり、メールが届いた。
別れてください。
知らないアドレスからのメールで、仕事が理由で別生活を送っていたと思っていたのでしばし頭がフリーズ。
そこから怒涛のてんやわんや劇があり、彼は結局私の元に帰ってきたのだが 自分の気持ちの整理が追いつかない。
受け入れる余裕が日に日になくなる。
心が忙しいのだ。死にたくもなる。
自分のどこがダメだったかと、責める日もある。
この言いようのない感情をどうにか残せないかと思い、おそらく付き合って初めて物をねだり当時最新のコンデジを買ってもらった。
彼氏にイライラをぶつけそうになったら、早朝であろうが真夜中であろうがコンデジを手にひたすら写真を撮り続けてみた。
一眼では持て余してしまう。
きっとコンデジなのだ。
その時の感情を閉じ込めて後でみてみたいとポケットにいつも忍ばせ密かに撮り続けた。
それもひとたび落ち着いた2016年、私たちは結婚し男児を出産した。
そこからの“私専用〟は、ひたすらに子供の成長記録を撮るようになった。
産まれた瞬間からずっとそばで撮り続けている。
産まれるまえの私の心も撮り続けている。
同じ場所に立っていても今見えている景色と、その時に私が見ていた景色はまるで違う。
愛する誰かのために切るシャッターと、内省のためのシャッターを切るとでは同じものが違う物になってしまうということに気づいた。
人生の一部をデジタルな記憶に閉じ込めて、過去と現在と未来を並べてみる。
そのカメラを手に入れた時には思いもよらない気持ちに気づく。
この先、きっと見返すのは楽しかった時の写真が多いんだろうと思う。
だけど、ほんとうは。
辛くてやるせなくて悲しくてどうにもならない感情を感じる時というのは特別な世界を魅せてくれるということを知っている。
それに気づかせてくれたカメラは、いまやなくてはならないものなのだ。
私にとってのカメラは、
日々こぼれていく記憶を手元に残すもの。
だと思った。
そして事実は小説より奇なり。
今私のカメラの師としているのは、その時のあの子なのだ。
彼女はプロのカメラマンで、何故か色々とその後繋がって 過去の出来事として笑い合いお互いがつらい気持ちをうまく消化して仲良くなったのだ。
そしてその恋敵の子がサブ機として使っていたのが“SIGMAdp quattro〟である。
なんと癖の強い、難しいカメラを好んだのかとそこに悔しさがあった。
私が知らない二人の時間には、きっと寂しさややるせなさもあったのだろう。
その子は quattroで悲しくて美しいマクロな写真を残していた。
こんな事があるなんて、人生も悪くない。
それも、きっと。
カメラが繋げる何かがあるのだろうと思う。
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