最後の客

 10年近く通ってた美容室が閉店する。その話を聞いたのはついひと月前のことだ。
 私は、ひと月かそこらに一度、気になってから連絡してカットしてもらうだけの、お店にしてみれば、けして良い客とは言えない客だった。最後にまだそれほど伸びていない髪を切ってもらうかと、おもいたって電話をした。

 すると電話のむこうで、申し訳なさそうに閉店まで予約でいっぱいだとマスターは言った。それはそうだろう。仕方ないと諦めた。
コロナの影響でこうして馴染みのお店が消えていく。最後の挨拶もできずに。

 そらから数日後の夜、電話かかかってきた。
私みたいなあぶれてしまったお客様がまだいるので、営業を少しだけ延長するという。

 ありがたい。 私の髪は、硬い上にクセもあり、初めての店ではみんな驚く。いわくハサミの刃がこぼれそうだとかなんとか…。

 だから馴染みのお店は貴重なのだ。
店に流れる70年代から80年代の洋楽ホップも他ではなかなか聴けない。
この店がなくなってしまったら、これからどうすればいいのか、大袈裟でなく途方に暮れる…。
 思い返せば、ここにお世話になった10年は、楽しくそして一方でしんどい日々だった。その中で少し息継ぎができる場所がここだった、と今さら思う。

 数日後、店に行くと、ひろくまさんが本当に最後のお客さんだ、とマスターは笑いながら迎えてくれた。 あらかた片付けも進んだ店内はいつもより殺風景な感じだった。もしかしたら、私のためだけに今日の営業をしてくれているのかもしれない。そんな感じでもあった。いつものようにカットの前にシャンプーをしてもらいそれからカットへ。 軽やかなハサミのリズム。何気ない会話。それらが全てが愛おしい。
 その場所が、今日で終わってしまう。なんとも寂しい限りだ。
コロナが奪っていった日常はいくつかあるけれど、その中でもこの店とマスターとのつながりを失ってしまうことは2020年のひとつの事件であることは間違いない。



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