朝井リョウ『正欲』
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優しさと諦念に満ちた大好きな歌詞がこだまする。
この本を読む前には感じなかった、怒りの熱を帯びて。
人はそれぞれ違うでしょ?の続きが、「だからお願い わかってほしい」ではないこの歌詞の底なしの孤独を、私は本気で想像したことがなかった。
正欲。
最も尊敬する小説家の新刊のタイトルを、発売のずっと前に目にしてから、覚悟を決めていた。
この1冊だけは、生半可な気持ちで読んではいけない。自分自身の狡さが、明確に言語化されてしまうに違いないから。
多様性は尊い。
差別はいけない。
みんな違ってみんないい。
こんな当たり前のことをわかっているだけで、わかっている気になっている人間が、その“マイノリティを認める大きな流れ”に組み込まれないマイノリティを排除していることを“わかっていない”。
だからお願い、かかわらないで。
切実な叫びも、「自分は理解をするもりだ、だから話をしよう」という、生まれてから自分の欲望の正当性が他者と共有できることが当たり前だった人の偉そうな一方的で善意もどきの暴力にかき消されてゆく。
そう、おめでたいのだ、大きな声で叫ばれる“多様性”という言葉は。
自分の想像力の限界に自覚的になることが優しさなのに、「わかるよ」「受け入れるよ」って、自分は、なんて偉そうでグロテスクな肯定を礼賛してきたのだろうか。
例えば、いまどき、「ゲイの温床」なんて言ったらレイシストだと多方からバッシングを受けるだろう。しかし、「ペドフィリア(小児性愛者)の温床」と言ったら、なんだかそこに集まる人は“ゲイ”にはないネガティブなイメージを含まないだろうか。
もちろん、小児性愛者が性犯罪に手を染めるケースもある。だが、三大欲求の一つである性欲の方向によって属性分けしているという点ではゲイとペドフィリアというのは同じレイヤーにある言葉なはずで、小児性愛は許されないということは、そのような性向を持つ人には三大欲求がひとつ、誰に認められることも、満たされることもなく生きていけ、ということなのだ。
これは、差別と言えないのだろうか。
ブレイディみかこ
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の一節を思い出す。
許されない感情なんて一つもない。それぞれがただ在るというだけだ。
それが多様性だ。
だけど、それはすごく骨が折れるし、難しい。
ヘテロセクシュアルも、ホモセクシュアルも、アセクシャルも、パンセクシュアルもありです。の言外に、“でもよくわからん〇〇セクとか〇〇フィリアとかなんとかは無理です”が、自分の中にあることに気づき、悩み、苦しみ、共存する道を模索することが本当の多様性であるはずだ。
分からなくても、ただ知っていて、邪魔しない。単純で難しいこの優しさを実現するにはどうしたらいいのだろうか。
私がこれから一生向き合っていく問いである。
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この世界にはきっと、二つの進路がある。
ひとつは、世の中にある性的な感情を可能な限りすべて見つけ出そうとする方向。
規制する側の人間ができるだけ視野を広げ、“性的なこと”に当てはまる事象を限界まで掘り出し、一つずつに規制をかけていき、誰かが嫌な気持ちを抱く可能性を極力摘んでいく方向。
もうひとつは、自分の視野が究極に狭いことを各々が認め、自分では想像できないことだらけの、そもそも端から誰にもジャッジなんてできない世界をどう生きていくかを探る方向。
いつだって誰かの“性的なこと”の中で生きているという前提のもと、歩みを進める方向。
私の大好きな人達は、みな後者を選び、戦っている。
少しでも、“孤独を孤立させない”本当の意味での優しい地球にするために。
システムが作られたことでマイノリティにされた人と、孤独のまま出会い、生き延びるために手を組もうと声をかけるために。
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