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16th Rebirthday

今日8月17日は、私が高次脳機能障害当事者として生まれ変わった日。今年で16才をむかえた。実際年齢でいえば義務教育期間を終えて、専門的な学業に励むか社会人の仲間入りをするかの瀬戸際なお年頃である。

私は高校への進学を果たしたが、最終学歴もまた高校だ。大学は4年生になる直前で中退し、高校通学中に関心を寄せた役者業の修練に励むため、その手の養成機関に入所した。しかしわずか4か月後にアルバイトの帰り途中で運搬トラックに撥ねられ、目が覚めたら病院の個室に横たわっていた。部屋の出窓の奥には4か月前まで在学していた大学がむかえるという皮肉。

はじめは担当医師に促されるまま「高次脳機能障害」と診断され、当然聞いたことのない障害名だったが、漢字の羅列が長いものはだいたい複雑な内容のものが多いと相場が決まっているから、自分が受けた其奴はなかなかに厄介な代物なのだろうと直感した。

家族から聞いた話によると、正面からでも目立つたんこぶがあったらしい。たしかに私の左後頭部には自然にできたとは思えない突起物があるし、こぶができたところだけ毛根が死滅したみたいで、今現在もなお理髪店で仕上げてもらっても髪の毛の長さが揃わない。ならば髪のことでお悩みなのかというとそうでもない。どうせ自分からでは見えないし、毛髪が一部薄くなっただけで自身の価値が下がったわけでも何でもない。それに腫れの引いたこぶがあるということは、私が生き延びてこれた何よりの証拠。誇りとまではいかないにせよ、再誕を祝うにあたって重要なパーツにはなりえるのだ。

さて16年目をむかえたわけだが、抱負を語る前に15年目はどのような年であったかを振り返ってみることにしよう。

すてっぷななの先へ

第一に挙げられるのは、あるオンラインサークルに入会したことだろうか。来月あたりにめでたく1周年をむかえるはずで、さまざまな人生を過ごした人たちで賑わっている。月に1,2回のペースでリモート交流をしたり、オープンチャットを自由に活用したりすることが可能だ。

最初に入会したと記したが、X(旧Twitter)で知り合ったとある方の考えにいたく共感・賛同し、サークルに入ってみたいというよりこの人についていきたいと思った。雷にでも打たれたかのような強い衝撃、もとい興奮は今でも覚えている。

意見を提示することはできても、実際に行動に移せる人はそういない。しかしその知り合いの方は、その場にいる人たちがのびのびと振る舞うことのできるスペースを立ち上げてしまったのだ。感動した。このように体現した人を間近で見られたのは幸運というものであろう。数ある出会いのなかで尊敬に値する人はいくらか存在しているけれど、「感謝」の二文字ではとうてい表すことが適わない人はこの世に2人だった。母とすてっぷななの統括所長。そしてオンラインサークル「W組」の創設者(例の知り合いの方)で3人目だ。

この3人に共通するのは、①女性であること、②世話をするのが好き(≒得意)なこと、③探究心があることだと思っている。それぞれ性格は違うし、趣味も異なれば、育った環境もバラバラだろう。もともと創ることにかけては追随を許さない性の人たちであるし、再現したり工夫を凝らしたりすることは何とか追いつけても、独創性はやはり敵わない。しかも精神的なつながりの手助けをすることの大切さを彼女たちは熟知しているはずで、「自分らしさを見つけるor取り戻す」というコンセプトのもと、われわれ当事者の傍らに寄り添うより陰から見守ることにおいても群を抜いている。主体性や自立を促すように指導し「ひとりの社会人」としての自覚を発現させる。「いつまでもいっしょ」というわけにはいかないし、させない。そういう芯の強さをもった人たちに支えられて、今の私があるように思える。

高次脳機能障害当事者として15年も生きることができたのは、まちがいなく彼女たちのサポートあってのこと。生涯けっして忘れてはならぬことだ。

地域社会への浸透

次点は地域社会との連携が叶ったことだろう。正確にいうと、すてっぷななのある地区の農業組合の方たちに声をかけて、かんたんな農作業に挑戦したり、収穫した野菜や果物を作業所のエントランス付近で直売したりするようになったのだ。

2020年初頭にコロナが大流行したことで企業からの受注作業が滞り、犬用クッキーの製作・包装をのぞいた作業内容が一気に減少してしまった時期があった。その際、「作業所内で何かしてみたいことorしてみたかったことってありますか?」という題目が課された。今年で14年目にもなる作業所の通所期間があれば、過去にトライして「面白い体験だったな」と思う出来事はごろごろあったし、あえて昔のことにはふれずに未知の世界に踏み出す選択もあるにはあった。が、私が提案したのは「とかかな」の一言だった。

すてっぷななへの通所をはじめて数年ほどに、横浜市旭区にあるNPO法人「こども自然公園どろんこクラブ」に赴いて屋外での軽作業に取り組んだことがあった。その中に植物の藍の苗を植えたり、荒れ地を鎌で刈って開拓したりして、今行なっている農作業に通ずる労働を悲鳴をあげながら汗水たらしてやっていた。その時はまだへっぴり腰で、20リットルの水が入ったタンクを当時在籍していた利用者と畑まで運んだだけで肩から息をする始末。障害者が多く集うジムで水泳をしていたにもかかわらず、使う筋肉が違ったというのもあって、われながら情けないと思うほど体力がなかったのである。

しかし、あれから10数年の時が流れて、実家の近くのアパートでひとり暮らしをするようになったことで体力も自信もその時とは比較にならないくらいに取り戻せていたので、「あの時はつらすぎて逃げ出したかったけど、今ならそこまで苦しくならないかも」と思い挙手した。あいかわらず作業内容によっては悲鳴をあげていたりするのだが、自己肯定感が上がったせいか、大量の水分が流れ落ちていっているのに苦しさよりも楽しさのほうがまさっていた。これは大いなる進歩である。

販売は統括所長をはじめとした職員が担当(時折われわれ利用者も従事)しており、地元の方たちが足を運んで目を爛々とさせながら次々に買い求めてくる。ますますすてっぷなな――というより自分たち当事者が地域社会に溶け込めていっているのが純粋にうれしい。

見えない障害」のひとつである高次脳機能障害の当事者は外見こそ健常者に映れども、いくら自分の言葉で説明できるようになっても共感されにくく、ひどい場合だと家族ですら信をおいてもらえぬありさまなので、心の拠りどころがほぼない。自然と孤立してしまうし、頼りたくても頼れない日々が続くことで人間不信に陥っていっそう理解されなくなる。

私自身もこのようにnoteで考えや思いを綴ることが今となってはできるようになったが、受傷直後は感情どころか自身を制御することなどできるはずもなく、何かあっただけで涙がとまらず通所で利用する電車内でも嗚咽をまき散らしていた。「明らかに何かあったんだろうな」と周囲も感じとりはしていたであろうが、泣き方が普通ではなかったから、見て見ぬふりをするしかなかったにちがいない。ちなみに当時を振り返ってみても、どうして泣いていたのかはわからないのだ。つまり原因ありきで涙をこぼしていたわけでもないということだ。暴走状態ゆえに「何がわからないのかわからない」という謎のマトリョーシカ現象が頻発していたのはたしか。

元号が令和に塗り替えられた現在でも、心にグッとくることができると泣き出す。なんならこの記事を書いている途中でも瞬間的にぽろっと出た。「どこで?」という問いには答えないが、ひとまず公衆の面前で悲鳴をあげずにひとり部屋で静かに鼻を啜るていどに収められている。「そんなのあたりまえだっつーの」という声が聞こえてきた気がするが、「ならばただちに車道に飛び出して私と同じ状態になってもらおうか」と毅然とした態で主張することが今ならできる。

共感は自分と近しい価値観や感情を共有していると起こりやすいが、異なる存在を相手にすると多大な想像力が必要になるので、よほどの異邦人と接する機会がないと自分を守るために攻撃するのが常だ。特に日本は島国であるため、身内には寛容な態度で接しても余所者にはとことん冷たい民族性がある。「共感が大事です」とSNSで唱える人は多くいるが、共感してもらえなくて路頭にさまよう人たちの意思は無視されているし、もっといえばそこに存在していないことにすらしてしまう恐ろしさと愚かさを秘めていることを肝に銘じてもらいたい。

上には上がいる

三つ目は、最初に書いたオンラインサークルのメンバーの1人に対して抱いた露骨なまでの悪感情。つい先ほど記した二つ目の終盤において共感のデメリットを述懐したが、その人の過去を説明されても想像を絶していてあからさまに脳内にブザーが鳴る。「危険です。考えないでください」という警報が響きわたるのである。

ただああいう感じの人はすてっぷななにもいくらかいた。傍から見るとツキノワグマみたいで怖いなと思ったが、いざ話しかけてみるとただシャイなだけだった人がおれば、四六時中ニタついていて作業中であろうと食事中であろうとおかまいなしに話しかけてくる人もいた。当時入院していた病院の食事が気に食わなくて延々と愚痴を言う人、一泊旅行の宿泊先のホテルの廊下をひたすら徘徊していた人etc.

怖いと思いつつ、でも気になるといった心理がはたらいて、不安ではなく興奮しているのかもしれない。たぶん理解不能すぎて面白いと思ってしまうのだ。そういう経験を障害当事者になってから数多くこなしてきた影響か、あまり物怖じしなくなったのだろう。普通の感覚がどういったものなのかは定かではないが、その点に限っていうなら私はだいぶ麻痺していると思う。X(旧Twitter)のフォロワーの方に件の人物について話したところ、「(近づくのは)やめたほうがいいですよ」とわりと本気で心配してくださった。そこで止まれたら彼も安心したのかもしれないが、自分のことよりもその人のことが知りたい気持ち(or衝動?)がまさっているのが現状といったところだ。こういうところがINFJな気もするのだが、はたしてどうだろう。好奇心に振り回されているだけなのかもしれないが。

それはともかく、X(旧Twitter)では興味本位で近づいておきながら共感に値する項目が見つからなくて、もはや拒絶反応を起こすかのごとくガス抜きという名の嫌味ないし皮肉があふれだしてしまった。さすがに直接的な言い回しだとサークルメンバーをも巻き込みかねないと思い、間接的にとどめたつもりなのだが、私の尊敬する3人目の方には「いや、隠せてないから」と苦笑された。事情を知っていることも相まって、ほかの人が見てもすぐ誰のことだかわかるよ、とも。そして、「ああまでして攻撃的になるのはきっとあなたのなかに【答え】があると思う」と言われ、そのことを考えるのが宿題となった。おそらく一生もの

この世でもっとも謎な存在は・・

原稿用紙400字詰で換算すると、ただいまの時点で4,500字以上。約11枚分といったところか。

記憶力や遂行機能の確認として作業所で作文を書くことがあるのだが、私は言葉を話すよりも書いたほうが理路整然とする性質のようで、「よくそんなに書けるよね」と仲間に感心されることが多い。私は「そう?」と返すのみで褒められてもあまりパッとしない。これも私の得意技のひとつなのだろう。

長いこと書き連ねてきて思うのは、どんなに自身の深堀りをしてもわからないままであるということだ。知れば知るほどわからなくなっていく。やれどもやれども謎のベールがペチコートのように重なって現れるのなら、自分ではなく相手を観察する。相手の関心ごとに関心をもち、そこからおのれを見出すやり方も有りなのではないか。三つ目のターゲットは強大すぎるゆえに片鱗が垣間見えたときには私の頭髪に白いものが目立ってきているかもしれないが、サークルメンバーの彼と出会ったことで自己探究の道が再スタートしたようにも思えるのだ。一生わからないまま骨を埋める世界線もあれば、何かがわかって一喜一憂する未来もあるはず。それが得か損かなど関係なく自分のやりたいように人生の活路を拓いていくことだろう。

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