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高次脳機能障害者である前に…

健常だった頃から多くの人に理解されないことがあって、人を人と思わぬリアクションをとられる場面に遭遇したことが多かった。幼少のころ両親(おもに父親)には「考えが甘い」と言われ、進学校を謳う高校に入学したくせに「役者になりたい」と申し出たことで当時の担任にしかめづらをされ、あれほど人前で歌ったり踊ったりするのを全力で嫌がるくらいのあがり症だったのにX(旧Twitter)のスペース等でカラオケで熱唱するさまを臆面もなく聞かせ、精神的なつながりを心から欲しているわりに共感してほしがりな人に対して軽蔑した態度をとってわざわざ嫌われることを楽しんで。ここまで過去のことを振り返りながら書いていても思うが、自分でもよくわからない行動をとっている。

私はいったい何を考えているんだろう。どうしてそのような気違いめいた行動・言動をとるんだろう。私とは何者なのか。


数ある性格診断のなかでもっとも心を掴まれたような錯覚に陥る16Personalities。
まだ作業所に通って間もないころに暇つぶしていどにやってみたら、妙に納得がいってしまった。

INFJ。それもA-typeで希少種。日本で、いや、世界でたったの2%しかいない性格の所有者でした。このような結果を言い渡されて、

「だから私は他人から身内、そしてこの私にすら理解されなかったのか!」

と、今までにおいて類を見ない反応をとったのだった。


誰かと関係する際に最初はあるていど合わせて接していくのだが、私のなかで何かが弾けたとき、それまでの関係を素早く遮断する現象が起きる。私はこの様子を「人間関係のリセット」と呼んでいたが、それはドアスラムであることをつい最近知った。たしかにガレージより心のシャッターを閉める速度は速い。

だがあくまで最終手段として用いていて、勢いよく閉めるまでギリギリの精神状態で持ちこたえているはずだ。親和欲求が強い一方で、相手のことを知りすぎないようセーブしていたふしはある。好奇心に振り回されないよう自らを律して、ただ相手の人を信じようとしていた。いや、信じたかった。しかし我慢の抑えがきかなくなったそのときにドアスラムとやらが発現し、孤独化への身支度を調えることに躍起になっていたのだろう。

「奇想天外」が呼吸をし服を着て酒を浴びるように呑み歩く摩訶不思議な存在。それが私だ。

ほとんどの時間をひとりで過ごし、たまに人恋しくなったら街中を適当にふらついて、私のなかで満ち足りたときにスッと姿をくらます。さながらのように。

私だって見たくないものはいくらでもある。だが視えてしまう。心の視力が人より高いのか、それとも相手の心がわかりやす過ぎるのか。「未来がわかっても面白くない」と漫画や小説の魔術師っぽい登場人物の気持ちは痛いほどわかる。自分のことはよくわからないのに、何故か相手が今後どのような人生を送るのかがなんとなくわかってしまうし、高確率で当たっている現実が私を悩ましく思わせてくれる。もうすこし心のうちを隠す努力をしてほしいものだ。私のような変人に見透かされるような程度の低い隠蔽の仕方にはほとほと呆れる。「どうせわかるまい」などと思っているからあっさり看破されるのだが、どうしてそうも自信満々になれるのだろう。その油断が大敵であり、場合によっては命とりになるというのに。

一瞬で気づくわけではないが、たいていの嘘は見抜ける。口は達者でも行動が伴わないような奴はどこまでも大人物ではないし、なれない。有言実行ないし不言実行の人物ならいくら口が悪くても信用できる。それが誠実な人間の証明たりえるからだ。

共感、気持ちに寄り添う、協調する。このような文言をSNS等で気軽に発言する者ほど危険なものはない。さらっと口にした輩が困った人にひと声かけるところを見たことがないし、そう言う自分に酔っていることが多い。ビジネスライクな感があって反吐が出る。某SNSのタイムラインにはびこるインフルエンサーどもの、一見聞こえのいい箇条書きのそれらは的を射ているように思えるが、よく観察してみると本音が紛れこんでいて、人間臭いといえばそうだがどうせなら最後まで恰好つけてほしいものだ。俳優の演技が中途半端なものだと夢見心地が台無しになる。手品師が意地でも種を明かさないように、演者の矜持というものがなければ支持のしようがない。観客は役者への信用をカネに換えて、対価としてそれを支払う。私が完璧主義者たる所以なのだろうが、プライベートはともかく、ビジネスのときくらいほぼ完璧なものを提供しようという気概はあって然るべきだろう。でなければ私たちは誰を信じればいいのかわからなくなってしまう。


ここ最近、私は作業所の枠を越えて、広域の高次脳機能障害者をはじめとした精神障害当事者の人々や彼らを支援する人たちとつながるべく、無理のないペースでコミットメントを図っている。
そのなかでひとりの女性とオンライン上で顔合わせをして、いくらか言葉を交わしているうちに「自分が何をしたいのか」が明確にわかった瞬間があった。

理解者になること。
誰かの理解者でありたい。

そうか。私はそんなことを考えていたのか。
と、自分のことなのにそれまで何を思い過ごしていたのか。まじで謎。案外自分のことなんてわからないものなんだよ。たぶん。

もしくは、誰かのことばかり気にかけ過ぎていたからなのかもしれない。心配性な面は昔からあるんだけれども、たいていその対象は私自身ではなく、私と関わったことのある誰かであることがほとんどで、肝腎の私の気持ちは置き去りだった。ような気がする。自己犠牲的と言われたら、「そうかもね」と思うが実際のところはよくわからない。おそらくほぼ無意識に行なっていて、あたりまえのように動いてしまうから自分で気づくことのほうが稀なのだろう。なんだか一種の使命感のように思える。

かといって、多くの人に理解されたいと思う強い気持ちはない。何故なら上記にもあるように理解されない日々を過ごしつづけてきたから。「この人なら打ち明けてもよさそう」と思う人にしか胸中を曝け出せず、波及させる意志がない。X(旧Twitter)のフォロワーなら呆れかえるほど目にしているであろう私の超絶に長いツイートは、心を許したからこそ饒舌になっている証。こうやって種明かしをすると恥ずかしいのだが、よくも悪くも私らしさで満ちているのがわかるはずだ。


この際だから言っておこう。私は誰かの理解者でありたいと願っていたのはここ最近判明したことであるが、もうひとつの願いも秘めている。

私を理解してくれる人がそばにいてほしい。
完全にはできなくてもいいから、わずかでも理解しようとしてくれる人がたまらなくほしい。

そのような人が現れさえしてくれれば心から安らぎを得られるだろうし、その人のために生きようとすら思えるだろう。

そんな夢のような幻のような人は現実世界になかなかいやしないのはわかっている。でも喉から手が出るほどに渇望しているのもたしかだ。我ながら理想が高すぎるとは思うし、リアリストな自分も存在しているおかげで、脳か心かが容赦のないツッコミを入れてくる。「そんなんおるわけないやろ」と(何故か関西弁)。現実主義者たちの厳しい声が左右の耳に流れ込んできても、理想主義者のハートは鋼のように固く、ちょっとやそっとで潰されることはない。ゆえに30代の折り返し地点に到達しても適当なお相手が見つからないままでいるのだろうが…。

悲しきかな、頑固一徹とはこのことを指していうのかしら。もうちょい柔軟に生きられたらどんなに楽だったことか。しかし私はこのような生きかたしかできないのだろうな、とも思うのだ。30年以上の歴史を築いてしまったのに、翌朝を迎えたのち、「100%心を入れ替えました!」なんて芸当ができるほど器用に生きていない。特にあのときは息を吹き返しただけで精一杯だった。

健常者歴21年と高次脳機能障害者歴14年+α。あと7年を以てすれば健常だったころと同じ年数を迎えることになる。長生きする予定はないのだがせめて42才までは生き長らえたい。その後のことはわからないし、考えても埒が開かない。人生はなるようにしかならないから。

とにかくあと5分で午前3時になってしまうから、寝支度を調えることにする。おやすみなさいませ。

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