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負け犬たる資格


"好きな人や物が多過ぎて 見放されてしまいそうだ"

椎名林檎「月に負け犬」


椎名林檎嬢の2ndアルバム「勝訴ストリップ」収録曲、「月に負け犬」の歌い出しである。
林檎嬢が十代の頃に作ったこの曲が、三十代後半の今の私の心に、切実に沁み入ってくる。
今更になってようやく、この曲の凄味というものを知った。
中学生時代から聴き続け、カラオケでもほぼ必ず歌い、「勝訴ストリップは『月に負け犬』か『虚言症』だわー」なんて言っていた癖に、だ。

小説を書くようになったからだ。

ふと思い立ち、小説を書くことに手を伸ばし、あっという間に引きずり込まれて気づけば7ヶ月経った。
人生でこれ以上は無い、と言うくらいにのめり込んでいる。
睡眠時間を削り、家事もなかなかの手抜き具合になり、夫との晩酌時間も減った。
こんなに趣味に没頭して、家族に呆れられないだろうかと不安になる。
不安になりそして、あぁ冒頭の“好きな人や物が多過ぎて見放されてしまいそうだ”というフレーズはこういうことかもしれない、と思った。

多くの人がそうなのか、は分からないが、私は自己顕示欲が強いので、書けば読まれたく、読まれれば認められたい。
SNSにnoteのリンクを貼り「匿名でいいから感想を下さい」と呼びかけたり、10年会ってない高校の恩師に「読んでください(ますか)」と送り付けたりした。
幸か不幸か、面の皮も厚かったのだ。いや、厚いのだ。
そして当然、公募にも出すようになった。

有難いことに時間を割いて長い小説を読み、しっかりとした感想を下さる方々がいる。
だからこそ、作品ごとに「これは多分出来が良くない」と分かる時がある。
公募に出せば否応なく、落選という結果を受け取る。

人間なので、評判が良くなければ凹む。
落選すれば「まぁ分かってたけどね」と心の中で唱えつつ、ひっそりと出版社のPCから消去されていくだろう原稿のデータを想って、作品に妙な申し訳なさを覚える。また凹む。

心の凹みを経由してまた、「月に負け犬」が浸透してくる。


“此の河は絶えず流れゆき
一つでも浮かべてはならない花などが在るだろうか
無い筈だ 僕を認めてよ”

椎名林檎「月に負け犬」


かつて私は、“此の河”は世の中だと、“花”は人だと解釈していた。
存在してはならぬ人などいない、と。
多分それも、間違いではない。

今の私は、“此の河”とは自分だと解釈している。
進学し就職し結婚し子を持ちローンを背負い、粛々と流れる“此の河”に、私は浮かべなくてもいい花を浮かべた。
長時間パソコンに向かって目は疲れるし腰は痛くなるし気がつけば夜中の二時になり、人の評価に一喜一憂してへとへとになる、という、書くという花を選び取り、“此の河”に浮かべた。

これまでの人生で私は、負け犬になったことがなかった。
いや、失敗続きの人生ではあるのだ。
大学受験では、第一志望の大学は不合格だった。
就活では二〜三十社に振られた。
新宿駅のホームで告白しバッサリ振られたこともある。

しかし、
「大学でいい友達に出会えたし、第一志望校落ちてよかったわー」
「最終的に面倒見いい会社入れてよかったわー」
「あの人と付き合っても多分合わなかったわー」
と、別にそれで良かった経験、というものに自分ですり替えていった。

小説の公募で落選するという、良かった経験にすり替えることは出来ないだろう事実を突きつけられる。その時私は、自分が初めて、ちゃんと「負け犬」になれた、という事に気が付いた。
小説を書くことも、公募に出すことも、「やらなくていいこと」である。
全くやらなくていい戦いを自ら仕掛け、堂々たる負け犬となった。
そして、「月に負け犬」という曲の美しさを一層、感じることが出来た。

私が書こうが書くまいが、世の中という河は何の淀みもなく流れていくだろう。
そして、自分という河に浮かべた「書く」という花は、明日には沈むかもしれない。
それでも、あの時に挑むことを選び、負け犬となったことは、ちっぽけではあるが私の勲章である。
選んだ者にしか、負け犬になる資格は無いのだから。




みたらし団子を買って執筆のガソリンにします