ビジネスの出会い この人との出会いがなければ埋もれていた私…
Sansan株式会社さん後援のnote企画。
数あるビジネスの出会い。
そりゃ語り出したらキリがないほどありますね。どの出会いにしようか…。
色々と過去の出会いを思い出しています。
この出会いも、あの出会いも…
そんなことを考えていたら、なんて自分は人に助けられ、そして出会いに恵まれているんだろうと思います。
その中から、厳選した出会いを紹介します。
その出会いは私が看護師になって4年目。
今から約13年前に遡ります。
その方の名前は仮称でリョウコさんとしましょう。
なぜリョウコさんか?
ご本人からの話ですが、学生時代、広末涼子に激似で、ファンクラブがあったとのことです。当時の写真を見せていただいたのですが、「たしかに〜」と思いました。
リョウコさんとの出会いは、ある大学の看護師さんや教員の方たちが立ち上げた事例検討会です。
事例検討会とは、看護師や支援者が集まり自分達が行き詰まっている事例やそのケア内容について、「あーだ、こーだ」と検討する会です。
私が参加していた事例検討会は、事務局も持ち回りの完全有志の会で、誰かの紹介がないと参加できないという制度でした。
私は当時の上司と参加したのですが、2回目の参加時にリョウコさんも参加していたのです。
初めて参加したときには、大学の先生方や精神科認定看護師の方々も参加されており、私自身は緊張していましたが、その日初めて参加したリョウコさんは積極的に発言していました。
その肝のすわりかたは、今でも覚えています。
しかも、的を得た発言ばかりで、最初の印象は「この人⁉すごい!」でした。
その事例検討会は終了後に懇親会があるのですが、その飲みの席で私はリョウコさんに「ホンマすごいですね!今はどこで働いているんですか?」と話しかけました。
リョウコさんは「訪問看護でアルバイトをしながら、来年、精神科認定看護師に行こうと思うねん」と言います。
精神科認定看護師…。
実は、私も翌年、認定看護師のカリキュラムを受講しようと考えていました。
精神科認定看護師とは、日本精神科看護協会というところが定めたカリキュラムを受講し、実習をこなし、試験を受け合格したらもらえるというライセンスです。
私「いやぁ…同期になるかもですね…(こんな化け物みたいな同期がいるんか)」
リョウコさん「一緒に頑張りましょう!」
私「はい…頑張りましょう」
そのあと同じ年齢だということもわかりました。
負けてられへん……
その日は、すごい人との出会いに複雑な思いを抱いた日でした。それが私とリョウコさんの出会いです。
そして翌年…
精神科認定看護師のカリキュラムを受け、もちろんリョウコさんも、そこにいました。
事例検討会で毎月、顔を合わせていたこともあり、その頃にはすっかり打ち解けていました。
ただ私はシャイです。
そんな私を横目にリョウコさんは私の隣の席を陣取り、「一緒に頑張っていきましょ」と微笑んでくれます。
それはそれは心強い。
でも、この人と比べられるのも嫌やなぁと内心思っていました。
というのも、当時、私は看護師5年目だったのですが、自分でいうのも何ですが、5年目にしてはそこそこ頑張っていたからです。
何を頑張っていたかというと、ケーススタディのようなケース論文を発表したり、ちょこっと看護学校に講義に行ったり、専門誌への投稿をしたりなどです。
なので、そこそこ知ってくれている人もいました。
世間から認められているという思いも芽生え、自信もついてきていた時期だったのです。
だから「周りから僕とリョウコさんを比べられるのは嫌やなぁ」とヘタレ根性丸出しで思っていたのです。
でもリョウコさんは純粋に事例検討会で切磋琢磨してきた有志と、机並べて勉強しましょう!という姿勢だったと思います。
思い返すとヘタレな自分が恥ずかしいですね…。
当時の自分に往復ビンタして、目を覚まさせてやりだいです。
そんなこんなで半年ほど、京都の烏丸御池に通い講義を受けたのですが、今でも忘れられない風景があります。
それは事業計画を書くリョウコさんです。
講義の合間に自分の訪問看護を設立する計画を立てていたのです。
事業資金のお金の計算から、どんな事業所にしたいかなど、夢を書き綴っていたのです。
ある程度、書き終わったら、その手帳を私に見せて、自分の頭の中にあるものを語ります。
それはそれは、とてつもないアウトプットで、聞くたびに圧倒されるようなプレゼンでした。
パワフルな人やなぁと、話を聞いていたのを今でも覚えています。
でも、そんな話を聞いているうちに私自身、訪問看護に興味が湧いてきました。
というのも私は精神科救急病棟で働いていたのですが、退院しても再入院になる方が一定数いるという現状をみてきました。
だから訪問看護のような支援につなぐことが必要と感じていたのですが、当時、奈良県の方では訪問看護は少なかったのです。
同じ法人内にも訪問看護はあったのですが、すぐにいっぱいになり、受け入れてもらえないことも多々ありました。
リョウコさんの事業計画を聞きながら、ふとある思いが自分の頭をよぎります…
奈良県で訪問看護が少ないのなら、自分が作ったらいいんじゃないか?
そんな思いです。
それからはリョウコさんの夢を応援するフリをして、訪問看護の情報をたくさん教えてもらいました。(ヘタレ野郎ですね…)
そんなある日の認定受講をしていた仲間たちとの飲み会の席です。
リョウコさんは、私に語っていたように周りの皆にも夢を語ります。もちろん大半の人は応援してくれます。
しかし、一部の人は「いやぁ、そんなに甘くないでしょ」「そこまでは大きくは無理でしょ」という言葉もありました。
でもリョウコさんは「えーっ!無理っていうた!最悪や〜〜!」と笑いながら、突っ込むのです。
表向きは笑っていましたが、心のなかで「今に見てろよ!」という気持ちがあったのではないかと思います(これは私の想像)。
そして、一年が経過し、互いに無事、精神科認定看護師に合格しました。
リョウコさんはその1ヶ月後に大阪の土地で、事業所を立ち上げるのです。
私は引き続き、精神科救急病棟で奮闘します。
しかし、その間もリョウコさんから聞いた訪問看護の話を時々、思い出します。
約1年が経過した頃です。
リョウコさんと学術集会でバッタリとお会いしました。積もる話もあり、認定仲間とも合流して飲みに行ったのですが、表情がキラキラしています。
「思っていた以上に大変だけど、めちゃくちゃ楽しい!」と充実のオーラが溢れでてました。
当時、リョウコさんの事業所、訪問看護ステーションみのりは、スタッフが10名近くに増え、飛ぶ鳥を落とす勢いでグングンと成長している事業所で注目もされていました。
訪問看護…
奈良県には精神に特化したところは少ない…
自分もやってみたいな…
そんな思いが強くなっていきました。
学会から帰ったあと妻と話をしました。
「病院を辞めて訪問看護をやろうと思う。でも、どんな形でやるかは決めていない。すぐに病院を辞めるのは迷惑がかかるから、1年後に退職して訪問看護の道を進むということを上司に伝えようと思う」と相談しました。
妻からは「よく考えてだした結論なら、応援するよ」と。
そして、上司に1年後、退職することを伝えました。
なぜ1年後にしたかというと、それまでに自分のやってきたことを引き継いだり、認定看護師として、後輩の教育に携わってから退職すべきだろうという思いがあったからです。それがお世話になった病院やチームへの貢献だとも思っていました。
もちろん上司からは法人グループの訪問看護に異動ではダメなのかという打診はされました。
ただ、それでは自分の裁量がもてず、利用者さんの受け入れ人数が決まってしまうので、社会資源の少ない状態は変わらない。そう思っていました。
だから法人内ではなく
退職して、外で…という熱を伝えました。
そこからは自分で設立するのか?それともどこかに所属して、ある程度のキャリアを積んでから自分でやるのか?
模索していました。
会社の設立なども勉強しながら、悩んでいた頃、別件でリョウコさんから電話がありました。
そのときに退職を決意して、訪問看護をやろうと思っていることを伝えました。
リョウコさんから認定受講のときに聞いた、理念や、思いに共感し、自分も興味が湧いたんだと。
するとリョウコさんは、さらりと「もう退職を伝えているのであれば、うちで修行して、奈良で立ち上げてもいんちゃう?」と話されました。
「ん⁉」
その発想はありませんでした。
修行といっても
大阪は遠いし、通勤できないっしょ…
そんな思いを先取りするように
「奈良からだったら遠いやろうから、社用車は貸与するわ」と。
具体的な話をしたかったので
その1ヶ月後に事業所に行き話をしました。
私は堰を切ったように語ります。
今の奈良のアウトリーチ(訪問型支援)の現状やこれからの展望、自分が奈良でどんな風にやっていきたいのか。
うなづきながらリョウコさんは、私の話を聞いてくれて…
「2年後にやろか」
「ん⁉︎何が?」
「奈良に事業所を立ち上げるのは2年後。それまでは大阪で修行して、奈良を設立する。それまでは走らなあかんけれど、2年という区切りがあったほうがいいやろ」と。
訪問看護の右も左もわかっていない私に対しての提案。うまくいくかどうかもわからない。
経営だけを考えたら都会かつ地盤のある大阪で、事業所を増やした方がいいに決まっている。
でも自分の思いに乗っかってくれるこの人は…
神か……
そんな風に思いました。
予定通り、1年後に退職し訪問看護ステーションみのりに入職しました。
半年後にサテライト設立が決まっていたので私はそのサテライトエリアにあたる東住吉区や西成区、東成区、南港など、その周辺エリアを訪問していました。
朝の6時に起床。
7時には自宅を出て、高速に乗り大阪府門真市まで出勤。
帰り着くのは夜9時過ぎ。
そういう生活を送っていました。
休みの日は体力回復にあて、その間は家族にも無理をいって休息を優先させてもらいました(感謝!)。
でも、順風満帆な滑り出しとはいきません。
認定看護師を取得しており、8年以上のキャリアもある。そこそこ実践力には自信がありました。
でも、そんなに甘くはなかった。
相次ぐ利用者さんからの拒否。
自分の看護の何がダメなのか?
大きな迷路に迷い込んだ感じの日々でした。
そんな私にリョウコさんは毎月、フィードバックをしてくれます。(当時リョウコさんは所長でした)
どんなフィードバックかというと、訪問看護では、毎月、月次報告書というものを主治医に提出する必要があります。
その月次報告書の内容をひとつひとつ確認し、フィードバックしていくのです。
これは、当時のスタッフも皆、受けていたのですが、私は2年後に奈良設立を掲げていたので、それはもう時間をかけたフィードバックです。
短くても一人の利用者さんに対して30分、長いときは2時間。
それを約20名、毎月やるのです。
訪問が終わった17時過ぎから始まり、遅いときは23時頃までやっていました。
もちろん1日ではできませんので、1週間ほどかけてやるわけです。
今思えば、フィードバックするリョウコさんも大変だったと思います。私の奈良設立に向けて、マッハの教育体制を敷いてくれたことに感謝です。
最初の頃はリョウコさんにボコボコにされていました。パンチドランカーになるかと思うほどです。しかし、少し休憩をいれたときに合いの手のように「少しずつ良くなってきてるやん」と肯定的フィードバックが入るのです。
雨とムチ…
ツンデレ攻撃…
そんなことはわかりながらも、その一言が嬉しくモチベーションに繋がっていきました。
もちろん実践力も相関するように上がってきたので、拒否もなくなり、看護展開として実践できるようになってきました。
そして、当時はフィードバックされたことをノートに書き、週末にまとめる。これを繰り返していました。
すると徐々に看護のポイントがわかってきて、フィードバックの時間も短くなっていきます。
ドラゴンボールの孫悟空が修行でボコボコにされたあと、仙豆を食べて体力回復すると、以前よりもレベルアップしているのに気づく。
そんな感じでしたね。
そのノートは、全て合わせると30冊以上になりました。
それらを実践し、体系的にまとめたのが私の初めての著書「精神疾患をもつ人を、病院でない所で支援するときにまず読む本 "横綱級"困難ケースにしないための技と型(医学書院)」です。
そんなこんなで入職から2年。無事、奈良の事業所を設立することができました。
私が入職したときは、一拠点だった事業所は徐々に仲間が増え、今では大阪、東京、神奈川、奈良の土地で、サテライトを含め13拠点と大所帯となりました(2023年3月現在)。
そして、今ではリョウコさんは恩師でもあり、仕事をするうえで互いに欠かせない存在になっています(私だけの一方通行だと恥ずかしいのですが…)
あのとき事例検討会で出会ってなかったら…
認定看護師の受講をしていなかったら…
訪問看護の話を聞いていなかったら…
そんなことを思ったりもするのですが、運命の出会いだとは思っていません。
もしそのタイミングで出会っていなかったとしても、同じ志をもっている者同士です。
どこかで接点があり、一緒にやっていただろうなと、そんな風に思います…‥。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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