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ヨーロッパ文化教養講座(「リプリー」と「太陽がいっぱい」2/2)

2022/10/29 The Talented Mr. Ripleyと2本の映画 その2


ディッキーを連れ戻す依頼について

「リプリー」(アメリカ映画)Mr.Reply(原作小説)では、ディッキー(フィリップ)とトム・リプリーが知り合いであったかどうかの設定が冒頭から違いました。
Mr.Repleyでは、ふたりは以前から知り合いで、ハーバード・グリーンリーフ氏にもふたりで会っていました。それをハーバード氏が思い出して、トム・リプリーに息子の連れ戻しを依頼したことになっています。
「太陽がいっぱい」(フランス・イタリア映画)では、トム・リプリーが「15才から知っている」といっているのに対して、ディッキー(フィリップ)は、「こっちで知り合った」と言っています。ディッキー(フィリップ)の連れ戻しの依頼の経緯についてははっきりさせていません。
この点「リプリー」は巧みです。 たまたまチャリティコンサートに、代役でピアノを弾いていた、トム・リプリーにディッキー(フィリップ)の父、グリンリーフ氏が、トム・リプリーが着ていたプリンストンの制服で勝手にだまされたことになっています。Mr.Replyは、小説ですので、トム・リプリーがモンジベロにいったきっかけを詳細に述べることができますが、(実際、彼がニューヨークで、所得税詐欺遊びをしていたことや、彼のよからぬ友達のはなしにページが割かれていて彼の知的な詐欺師的才能や、同性愛志向があるかもしれない点を詳細に述べています)映画では、短時間の間に説明口調でなく設定しなくてはなりません。この点で、短い間に、トム・リプリーの詐欺師的才能とグリンリーフ氏に息子の連れ戻しを自然に依頼させる事を観客に示す技は見事だと思いました。

メレディス・ローグの役割

「リプリー」では、「太陽がいっぱい」では出てこない、メレディス・ローグという富豪の女性を登場させました。この女性の役割を考えてみました。
もちろん、マージ(マルジュ)と違うタイプの美人女優を登場させて場を華やかにするという一般的な役割は当然あるわけですが、「リプリー」では、主要登場人物の中で、ディッキー(フィリップ)がいなくなった後に雇われた、アルヴィン・マッカロン探偵をのぞくと、トム・リプリーとディッキー(フィリップ)の共通の知人、友人ばかりです。

ところが、メレディス・ローグだけは、トム・リプリーが扮するディッキー(フィリップ)しか知りません。彼女の存在のために、トム・リプリーが有利になったのは、スペイン広場の前で、マージ(マルジュ)にディキー(フィリップ)がまだ生きていることを納得させられたことです。

その一方、トム・リプリーがディッキー(フィリップ)の後に愛する対象になった、ピーター・スミス・キングズリーを最後には殺さなければならないはめになり、またメレディス・ローグも殺さなければならなくなるのではないかという、彼の苦悩を増すことになります。

もし、トム・リプリーがアメリカからの船が到着したときに、メレディス・ローグに対し、トム・リプリーと名乗ってさえおけば、何事もなかったわけです。

この点を考えると、彼女の存在があったことで、トム・リプリーの機転のすごさを引き立たせた反面で、殺人を重ねなければならないという内面の苦悩も描くことができるようになったと言えます。


ピーター・スミス・キングズリーの役割

また、Mr.Repleyでは、ピーター・スミス・キングズリーは、トム・リプリーがベネツィアで知り合ったので、彼は、ディッキー(フィリップ)を知らないはずです。

Mr.Repleyでは、トム・リプリーがピーター・スミス・キングスリーに対する感情を自ら確認することによって、自分が、本当にディッキー(フィリップ)を愛していたんだという事を再認識し、ディッキー(フィリップ)を殺してしまったきっかけになった、彼の上着を着た事を後悔して泣き出してしまうというエピソードの入り口をピーター・スミス・キングスリーが与えるという役割を果たしています。

「リプリー」では、トム・リプリーが地下室に埋めた暗い記憶を共有する役割を与えるのかと見ていましたが、やはり、トム・リプリーは他人はたとえ愛する人でも自分の地下室には入れられないことが解りました。

ここで、上着を借りた点については「リプリー」では、導入部で、「もしやり直せるのなら、自分の過去を消したい、上着を借りたことから」と自答させ、ディッキー(フィリップ)の上着を着てディッキー(フィリップ)になじられたことと併せて、ディキー(フィリップ)の父親グリンリーフ氏と知り合うきっかけになった、プリンストン大学の上着を借りたことの二重メッセージになっています。

エンディングについて

エンディングは、三者三様です。

「太陽がいっぱい」では、ディッキー(フィリップ)の死体がスクリューにひっかかって陸揚げされてしまい、それによって、トム・リプリーが警察に捕まる寸前で終わっています。 このシーンは、モンジベロの降り注ぐ太陽とくつろいで幸せに浸っている、アダン・ドロン演じるトム・リプリーがまもなく、地獄に堕ちるのだという、映画史上に残る名場面となっています。ということは、クレマン監督はこの作品の続編などは意識もしなかったのでしょう。

「リプリー」では、ピーター・スミス・キングスリーを殺したトム・リプリーが、船の上でどうやって切り抜けるのだろうかと、考えさせながら終わります。死体を海に捨てたのだろうか? 強盗にやられたように見せかけるのだろうか? それとも観念して、自首するのだろうか? など、いろいろ考えさせられます。もし、リプリーシリーズが始まったとしたら、ここの謎解きから始まるのでしょう。

Mr.Repleyは、トム・リプリーに最大の幸福を与えて、無罪放免です。パトリシア・ハイスミスのリプリーの第二作「贋作」が15年たってからやっと発表されたことを考えると、明確にシリーズ化は、考えてなかったのかもしれません。

オリジナルとリメイク

今までは、オリジナルとリメイクというと、オリジナルが名作でリメイクはつまらないという固定観念を持っていました。

ユル・ブリンナー デボラ・カーの「王様と私」と「アンナとシャム王」や、ジュディ・ガーランドの「オズの魔法使い」とディズニー映画の「オズ」など、私が見た映画の中でもこの事は当てはまると思っていました。

でも、今回の「太陽がいっぱい」「リプリー」は、時代が違えどどちらも名作だと思いました。さらに、原作も併せて比較することによって、比較文化的な楽しみも生まれることがわかりました。

おわりに

今回の課題の準備段階で始めてパトリシア・ハイスミスを知りました。彼女が、ヒッチコックの「見知らぬ乗客」の原作者であることや、トム・リプリーは、この後、シリーズ化されて、計5作の作品に登場することがわかりました。
「見知らぬ乗客」でもそうですが、サスペンスの重要な要素である、トリックやアリバイなどより、登場人物の心理描写に非常にすぐれている作家だと思います。彼女が同性愛者で、トム・リプリーの心情をよく理解できるということもこの作品では重要ですが、心理描写をいかに、大衆受けしなくてはならない映画に持ち込んで、鑑賞に堪える作品に仕上げるかというのも、監督の腕の見せ所と言えるでしょう。

その意味で、この作品を素材にして、アドニスのような、アラン・ドロンを中心に据え、自らを昇華させたルネ・クレマン監督と、Mr.Replyでのトム・リプリーの感情をあますとこなく、観客に伝えることに成功した、ミンゲラ監督とマット・デイモンの演技は、すばらしいと思いました。

以上

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