ヨーロッパ文化教養講座(1954年イタリア映画 La strada「道」)
2022/12/29
個人的採点は、★★★★
(★★★★ 直ぐにではないが、再度観たい作品)
Filmarks: 3.9 (2,718)
今年も残り3日となってきた。今年はいろんな映画を見たのだが、私の好きな映画は?と聞かれたら、今でも、マイベスト10に入るのが、フェデリコ・フェリーニ監督1954年の映画「道」である。
今日は、2007年に当時在籍していた大学に提出したレポートをそのまま記載する。
・「道」1954年 のジュリエッタ・マシーナ(公開時34歳)について
#主演女優 ジュリエッタ・マシーナは、フェリーニ監督の妻
ジェルソミーナは、ちっと変わった、多分知能指数が人より劣ったキャラクターですので、知的な言葉による雄弁さは、使えません。
監督としては、それ以外の方法で表現するしかありませんが、特に表情がすばらしいと思います。
まず、旅芸人ザンパノに1万リラ(後のシーンの酒屋の払いが4200リラなので、今の1万円~3万円くらいかなと思います)で、亡くなった姉ローザの替わりに買われていきますが、最初の夜に、「外で寝る」とザンパノに言った時、初めてザンパノに名前を聞かれます。(ザンパノは、ここで初めて、ジェルソミーナを女として意識したのでしょう。)
次の日の朝、目覚めてまず、涙を流すが、はにかんで、男の寝顔をみる何とも初々しい表情。この表情一つで、前夜の行為が観客に伝えられます。
つぎに、居酒屋で娼婦と思われる、豊満な女をザンパノが連れ出し、ジェルソミーナは、置いてきぼりをくらい、外で待ちぼうけを食う。
近所の人が親切に差し入れをしてくれるが、手もつけず、あんたの亭主は町の外と言われ、いそいそと走っていくその姿がけなげです。
町の外の野原で前夜の宴で疲れ切ったザンパノが寝ていますが、ジェルソミーナは、トマトを植えています。
「女は家につく」と言われていたように、無意識の女性らしい定住思考を表しています。
補足するように、運転中のザンパノに、「あの女と寝たのか ローザとも寝たのか」と嫉妬心をあらわにします。
場面は変わり、結婚式の余興に呼ばれて、顔はピエロの化粧で踊ります。
野獣そのものの、ザンパノは、さっそく、厨房の年増の未亡人に声をかけ、帽子が欲しいと2階へ一緒に上がる。その時、鈍感な、ジェルソミーナに、「CIAO」とにっこりしながら、声を掛ける。
ジェルソミーナは、ザンパノの嬉しい表情に思わずにこりとするが、よくよく考え、「ええまさか この女性と?」->「いや、そうに違いない」と表情がにわかに曇り、しかも、それをピエロ化粧の顔で表現するのですから、観客もまさに一喜一憂です。
頭にきた、ジェルソミーナは、ついに出て行ってしまう。
その日はカーニバル(?)の夜で、綱渡りの曲芸があり、本映画の最重要脇役である、「曲芸師」と出会う。
宴の後、ジェルソミーナは、ザンパノに連れ戻される。
舞台は、いきなりサーカス小屋の裏舞台に変わり、バイオリンも弾ける「曲芸師」がジェルソミーナに、トロンボーンを教えようとするが、ザンパノが外出から帰ってきて、大げんかになり、終にザンパノは、連行されてしまう。
その夜、「曲芸師」から、「おまえは、美人でもないし、料理も踊りも歌も出来ないが、石ころでも世の役にたっているように、何かの役にたっているはずだ。
ザンパノがお前を捨てないのは、犬のようなザンパノが、お前を必要としているからだ」と言われて、ザンパノの不在で落ち込んでいた、ジェルソミーナは、いっきに明るくなり、小石を手に、これが、自分だと言わんばかりの表情で見つめる。
「ザンパノには自分が必要なんだ」と確信したかのように。
牢屋から出てきて、自分を待ってくれていたジェルソミーナに対して、少しはすまないと思ったのか、ジェルソミーナの故郷へ連れ帰るザンパノ。
でも、ジェルソミーナは、確信したかの表情で、「もう家に帰る気はしない あんたのいる場所が私の家」というが、その時のザンパノの反応が、「家に帰ればたらふく食えないからね」という野獣そのものの反応だったので、「あんたはけだもの」とおこってしまう。まるで、掛け合い漫才の様です。
雨宿りさせてもらった、僧院の中で「私が死んだら悲しい?」「夫婦みたいね」「少しは私が好き?」と少女っぽい感傷に浸るジェルソミーナに対し、ザンパノは、僧院の銀のハートを盗もうとし、またまたジェルソミーナを悲嘆させる。
この部分は、「ラ・ミゼラブル」の銀の燭台を盗むジャンバルジャンを思い出します。人格者の司祭に許しを得た、ジャンバルジャンは、立派な実業家になりますが、ジェルソミーナの愛情があっても、ザンパノは、野獣のままのようです。
僧院を去るジェルソミーナが悲しみに沈んでいるので、シスターも何か感じたらしく、「ここに居たらどうですか?」と誘うが断る。 シスターには笑顔で別れるが、昨夜のことを思い出し泣き出すまたまた、急激な感情の変化。
この後「曲芸師」がパンクで立ち往生しているところに遭遇し、恨みを忘れていない、ザンパノがなぐり殺してしまって、物語が急展開します。
精神に異常をきたして、だんだん現実がわからなくなる、ジェルソミーナ。食べ物も口に入らない。ある、町外れで、食事のため、駐車したザンパノに10日ぶりに、口を利き、表情も楽しそうです。
料理の手伝いをして、食事を始めると突然、「彼が死んでしまう。」とほぼ無表情で口走る。
完全に精神に異常をきたしたらしく、感情がめまぐるしく変化する。
「私がいないとあなたはひとり」「彼が、あなたと一緒にいろと言った」と現実と夢の区別も解らなくなってきた。
そのまま、たきぎの脇で、このまま死んでしまうのではないかと思うくらいのやすらかな寝顔です。
おきざりにして、ザンパノは、出発しようとしますが、ジェルソミーナのテーマのトランペットを枕元に置いていきます。
ここが、ジェルソミーナ登場の最終シーン。
後でザンパノがこの後4,5年後にジェルソミーナが亡くなった事を知ったわけですが、ジェルソミーナは、置き去りにされた日からは、夢の中でザンパノと幸せに暮らしたのではないかと観客には思わせているようです。
このままで終わったら、観客は納得しないのでしょう。 ザンパノの懺悔のシーンが最終シーンになっています。 ザンパノの様な野獣的人間は、根は単純で、善良なので、ジェルソミーナが死んで初めてその存在価値を知ったということだと思います。
実社会は、人それぞれなので、ザンパノ的人間が、いつも改心するとは限りません。しない場合の方が多いのではないかなと、最近の社会事件を見ていると感じてしまいます。
タイトルの「la strada」の意味付けが解りませんでした。 伊和辞典で引いても、最も標準的な「道」の意味であるようですので、ジェルソミーナの人生行路とザンパノの人生行路が交錯して、それぞれ人生が変わってしまったとも言えるのかなと思いましたが、ちょっと解りませんでした。
#15年後の追記「道」のタイトルについて
ジェルソミーナにとっては、ザンパノについていくという「道」しかなかった。この「道」を歩いている間は、ザンパノと繋がっていて孤独ではなかった。
この「道」は、ザンパノの殺人によって急に閉ざされてしまい、ジェルソミーナは、孤独になった。
ザンパノもジェルソミーナを捨てることによって、「道」が閉ざされ、孤独になった。