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ヨーロッパ文化教養講座(「リプリー」と「太陽がいっぱい」1/2)

2022/10/28 The Talented Mr. Ripleyと2本の映画 その1
「リプリー」を15年ぶりにWOWWOWで見た。同じ原作の「太陽がいっぱい」との比較を論じたレポートを提出したのを思い出した。

そのレポートは、小生が50歳のときのものだが、再読したところ、15年間の人生経験や知識の増加はあまりみられない。(つまり、自分が進歩していないということ)
以下レポート本文。

はじめに

「太陽がいっぱい」「リプリー」を映画で見た後、パトリシア・ハイスミスの原作『リプリー (The talented Mr. Ripley) 以下 Mr. Repleyと表記します』を読むことになりました。 原作を読んだ結果結論から言えば、「リプリー」は、Mr.Repleyを基にミンゲラ監督が、映画化したものであり、「太陽がいっぱい」は、Mr.Repleyに着想を得て、クレマン監督が「昇華」させた作品ではないかと思いました。

(注:原作者パトリシア・ハイスミスはアメリカ人。「リプリー」は、アメリカ映画。登場人物の名前は共通している。
「太陽がいっぱい」は、フランス・イタリア映画。 
ディッキー・グリンリーフ   ->  フィリップ・グリンリーフ
マージ・シャーウッド           ->  マルジュ・デュヴァル
メレディス・ローグ              ->   登場せず
ピーター・スミス・キングスリー -> 登場せず 
となっている。)

「太陽がいっぱい」は、アラン・ドロンの出世作としてあまりにも有名で、テレビでも何度も放送されたため、私もかなり前に見たことがありました。しかし、アラン・ドロンのイメージが強すぎるためか、作品そのものについては、あまり印象がありませんでした。しかし、今回続けて、「リプリー」を見て、Mr.Repleyを読むと、同じ原作から生まれた全く違う映画という点でも面白いだけでなく、それぞれが、すばらしい作品だということが解りました。

トム・リプリーの性向と殺人の動機について

まず、主役のトム・リプリーですが、「リプリー」では言うまでもなく、同性愛者として描かれており、それが、殺人の動機にもなることで、非常に重要ですが、Mr.Repleyの中では、マージ(マルジュ)に非常に嫉妬心を持つことから、同性愛者であることは間違いないものの、「リプリー」の中の列車の窓のキスシーンの様な、直接の描写はなされていないと思いました。
まず、時代が同性愛者を「リプリー」の時代ほど許容しなかった点もあるでしょうし、ハイスミス自体が女性作家Marijane Meakerと同棲してスキャンダルになったことで、表現を押さえたほうがいいと判断したのか、それとも、トム・リプリーのディッキー(フィリップ)に対する愛情は、同性愛とは言ってもプラトニックなもので、それを表現したかったのかなとも思いました。

いずれにせよ、このトム・リプリーのディッキー(フィリップ)に対する愛情が、殺人の動機そのものである点が、「リプリー」Mr.Repleyの映画化であり、「太陽がいっぱい」がそうではないと感じた点です。

「太陽がいっぱい」のトム・リプリーは、ディッキー(フィリップ)に成り代わって贅沢したいという金銭欲が全面に出て殺人には計画性を感じます。それに対し、「リプリー」のトム・リプリーの殺人は、全くの衝動的に描かれていて、それ故、殺人のあと、死体に添い寝するといういささかショッキングなシーンになっていますし、あとで悪夢にうなされます。 
Mr. Repley のトム・リプリーは、マージ(マルジュ)に対する憎しみが全面に出ており、捨てられようとする自分を守るために、ディッキー(フィリップ)を殺さざるを得なくなるほど追い詰められながら、一方冷静に殺人計画を旅行中に隣にいるディッキー(フィリップ)を見つめながら立てるという、ぞっとするような描写があります。

もちろん、「太陽がいっぱい」でも、重要なシーンである、トム・リプリーが、ディッキー(フィリップ)の上着を着て、悦にいるところは、描かれていますし、ディッキー(フィリップ)を刺し殺すまさにその直前に、ディッキー(フィリップ)が、「マージ(マルジュ)を愛している」と言ったことに対しての、リプリーの反応はこの性向があらわれていますが、この性向の表現よりも、ナルシストとしてのトム・リプリーを世紀の二枚目である、アラン・ドロンにルネ・クレマンが演じさせていると見た方が自然だと思います。
そうすれば、トム・リプリーが、最後に落ち込んでいるマージ(マルジュ)をものにするという事が不自然でなくなります。トム・リプリーが殺人に対する後ろめたいところが全くないのも、その方が、クールでかっこいいトム・リプリーを描けると見たのかもしれません。

これらのことから、「太陽がいっぱい」は、ルネ・クレマンが、アラン・ドロンに対する感情を昇華させた作品であると言っても言い過ぎでないような気がします。

トム・リプリーとディッキー(フィリップ)の容貌について

「リプリー」では、主役のトム・リプリーは、どちらかといえば、性格俳優である、マット・デイモンを持ってきて、「Talented」な知的なリプリーを演じさせました。ただそうすることで、2枚目俳優である、ジュード・ローのディッキー(フィリップ)との容貌の差が大きすぎたのか、Mr. Repley では、トムが、ディッキー(フィリップ)に完全になりすますことができたという、不自然さをカバーするために、ミンゲラ監督が工夫したことが、わかります。
まず、Mr. Repley では、担当の刑事をロヴェリーニ警部補一本にしていますので、ローマで、ディッキー(フィリップ)としてのトム・リプリーに会い、ヴェネツィアでは、トム本人としてのトム・リプリーに会っていますが、同一人物であることは気がつきません。
一方「リプリー」では、ヴェネツィアには、担当から外されたロヴェリーニ警部補に代わって、別の刑事が尋問することになっています。

この点、「太陽がいっぱい」では、ローマのディッキー(フィリップ)としてのトム・リプリーのアパートに、刑事が来たときには、間一髪でタクシーで逃げだし、外のホテルから、トム・リプリー本人として、ディッキー(フィリップ)に電話をかけ、刑事に電話を取らせることにしました。つまり、ディッキー(フィリップ)としてのトム・リプリーは、刑事に会っていません。また、パスポートの写真も差し替えてしまっていますので、この点も観客には自然に見えるように工夫しています。

両映画ともこの点で Mr. Repley を採用しなかったのは、どんなに似ている俳優を持ってきても、双子でもない限り、見破られないことが不自然に見えてしまうのでしょう。実社会では、一度会っただけの人をそれなりの時間がたった後、別の場所で別の人間に扮している人に会い同一人物だと解ることの方が難しいといは思いますが。

マージ(マルジュ)について

相手役のマージ(マルジェ)についても、「太陽がいっぱい」では、魅力的で、可愛い普通の女性として描いて、ディッキー(フィリップ)と愛し合っているという比較的単純な関係にしたのに対して、「リプリー」では、マージは、知的な女性でありしかも、ディッキー(フィリップ)を深く愛しているのに対して、ディッキー(フィリップ)は遊び相手の一人としてとらえています。
それを証明するため、モンジベロの婚約者のいる女性といい仲になって、孕ませて自殺させてしまうという、「ドン・ジョバンニ」的人間に描いています。 Mr. Repley では、書かれた時代もあったのでしょうが、ディッキー(フィリップ)とマージ(マルジュ)が肉体関係にあったかどうかは、明示せず、マージ(マルジュ)がディッキー(フィリップ)を愛していたことだけはわかります。

(追記:ディッキーがマージを本当に愛していたかどうかについては、今はYESだと思う。ディッキーが「ドン・ジョバンニ」的なのも、成功者の息子として生まれ、親の威光がなければ何もできない葛藤を女性を征服することによって紛らわしていたともとれる。)

このカップルの両者の関係の濃淡のため、ディッキー(フィリップ)の指輪をマージ(マルジュ)がヴェネツィアのトム・リプリーの家で見つけたとき、「リプリー」では、マージが徹底的にトム・リプリーを疑ってしまったことにしました。愛する女性の感情を全面に出したというわけです。

Mr.Repleyでは、見つけたことでかえってディッキー(フィリップ)が自殺したのではないかという疑いの裏付けをマージに持たせました。それは、マージ(マルジュ)の愛情がまだプラトニックなものだったということを暗示しているのかもしれません。しかも、その事は、トム・リプリーを救うことにもなりました。

ディッキー(フィリップ)を連れ戻す依頼について

「リプリー」Mr.Replyでは、ディッキー(フィリップ)とトム・リプリーが知り合いであったかどうかの設定が冒頭から違いました。Mr.Repleyでは、ふたりは以前から知り合いで、ディッキー(フィリップ)の父、ハーバード・グリーンリーフ氏にもふたりで会っていました。それをグリンリーフ氏が思い出して、トム・リプリーに息子の連れ戻しを依頼したことになっています。「太陽がいっぱい」では、トム・リプリーが「15才から知っている」といっているのに対して、ディッキー(フィリップ)は、「こっちで知り合った」と言っています。ディッキー(フィリップ)の連れ戻しの依頼の経緯についてははっきりさせていません。

この点「リプリー」は巧みです。 たまたまチャリティコンサートに、代役でピアノを弾いていた、トム・リプリーがプリンストンの制服を着ていたので、勝手にだまされたことになっています。Mr.Replyは、小説ですので、トム・リプリーがモンジベロにいったきっかけを詳細に述べることができますが、(実際、彼がニューヨークで、所得税詐欺遊びをしていたことや、彼のよからぬ友達の話にページが割かれていて、彼の知的な詐欺師的才能や、同性愛志向があるかもしれない点を詳細に述べています)映画では、短時間の間に説明口調でなく設定しなくてはなりません。この点で、短い間に、トム・リプリーの詐欺師的才能とハーバード氏に息子の連れ戻しを自然に依頼させる事を観客に示す技は見事だと思いました。

以下 次回へ続く

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