生命は動的平衡か 3生物学における動的平衡

生物学における動的平衡

生物学では化学と違った意味で「動的平衡」が用いられることがある。生命現象は開放系であり、化学でいうところの「動的平衡」はあてはまらない。開放系というのは、生命は外部からエネルギーと物質が供給されなければ、状態を維持していけない、すなわち生きていけないということである。化学平衡が二つの反応が可逆的であるのに対して、細胞が死んでもその細胞の残骸がそのまま再生して新しい細胞になるのではない。

生物学に「動的平衡」を持ち込んだのは、私の知る限りでは、イタリアの哲学者リニャーノらしい。Harvey(1909)によるとリニャーノは“獲得形質の遺伝について”(Rignano 1907)という書物の中で、記憶について論じた。彼は記憶を電流と蓄電池の関係と対比させた。何かを知覚すると、神経物質が変化する。その変化が保存されることによって、記憶が残る。そして記憶を思い出すことは、逆向きの神経電流によって生成される。

「この記憶装置からの放電は、その挿入の仕方によって、ある神経系のある地点にしか流れず、その網目の長さだけ、互いに結合したり分解したりできる、最も多様な特異性を持つ多くの流れが横断し、それらの間で動的平衡にある。」

Rignano (1907) Ueber die Vererbung erworbener Eigenschaften. Engelmann

私の理解が正しければ、記憶は知覚による信号のインプットと同じ信号をアウトプットするという可逆的反応であり、これが動的平衡だと論じているのだと思う。

また、1913年にはイギリスの心臓電気生理学者G.R.マインズが心臓における動的平衡について論文を書いている。
 
彼の「心臓の動的平衡について」の論文は、1913年に『生理学雑誌』に掲載され、心臓の電気活動のメカニズムについて論じた。彼は、心臓の拍動が心臓の化学的環境の変化や心臓神経の刺激によって、拍動リズムの周波数が変化する可能性がある複雑な動的平衡だとした。
Mines, G. R. (1913). On dynamic equilibrium in the heart. The Journal of physiology, 46(4-5), 349.

ルドルフ・シェーンハイマーは1942年の論文の中で、「動的平衡」を論じている。これは、体重が増えない成熟動物で、食物として生体内に取り込んだ窒素分子をもとに作られた新しいタンパク質と同量の窒素分子が排出されることにより常に平衡が保たれていることである。

血清タンパク質が急速に分子再生を行っている知見はホウィップルおよび共同研究者の理論(39)と一致している。彼らは血漿交換法(プラズマフェレシス)によって失われた血漿タンパク質が急速に補給されるのは血液タンパク質と組織タンパク質が動的平衡状態であることによると考えている。これらの研究者たちは知見をまとめて次のように言った「この事実はある条件で(たぶん多かれ少なかれ絶えずに)体タンパク質と血漿タンパク質のあいだに『ギヴアンドテイク』があることを確信させる。」血液と臓器の動的状態についての概念は最後の講義で充分に論ずるようにすべての我々の結果によって支持される。

シェーンハイマー(1942)生体構成物質の動的状態、 青空文庫

しかし、生物学における「動的平衡」概念は、ベルタランフィについて語るべきだろう。
 
ベルタランフィは1932年に生体すべての組織は絶え間なく交換されるが、全体として生物体は一定のままであることを動的平衡と呼んだ。同時に生体はは開放系であることも指摘し、開放系の「動的平衡」について定常状態をいう言葉を作りだした(Drack 2015)。1932年の原典には当たれていないが、1950年の論文の中で次のように書いている。

「開放系は、(ある条件を前提とすれば)時間に依存せず、構成物質の連続的な流れがあるにもかかわらず、系全体および相の比率が一定である状態を達成することができる。これは定常状態と呼ばれる。」
「平衡状態にある閉鎖系は、その維持のためにエネルギーを必要とせず、またそこからエネルギーを得ることもできない。しかし、仕事をするためには、その系は平衡状態ではなく、平衡状態になろうとするものでなければならない。そのためには、系は定常状態を保たなければならない。したがって、開放系という性質は、生体の継続的な作業能力の必要条件である。」
「あらゆる有機的な形態は、さまざまなプロセスの積み重ねの結果である。あらゆる有機的形態は、その構成要素が絶えず変化することによってのみ存続する。しかし、一歩踏み込めば、この維持は、細胞内の化学化合物、多細胞生物の細胞、超個体生命体の個体など、次の低次のシステムの連続的な変化を含んでいることがわかるのである。この意味で、あらゆる有機システムは本質的に動的平衡に立つプロセスの階層的秩序である、と述べた(von Bertalanffy 1932, p. 248 ff. )。... したがって、有機的な形態は、秩序ある諸力のシステムのプロセスのパターンの表現であると考えることができる。」

Von Bertalanffy, L. (1950). The theory of open systems in physics and biology. Science, 111(2872), 23-29.

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