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「少子高齢化」をどう教えるか 〜社会科教員ジェンダー格差問題の具体例

元学校社会科女性教員で、歴史学者でもある自分ならではの #Don’t be silent. 

ホモソーシャルな関係性で成り立つ社会を補完する中等教育社会科教員の男女比

JOCの森会長の発言に対して、Don’t be silentやGender equalityなど海外からの批判や運動が勢いを持つ一方で、日本では動きがどうしても鈍い。結局辞任になっても、後任人事でgender equalityへの取り組みをアピールするどころか、益々醜態を晒す始末。

そう、この発言そのものの問題はもちろんだけど、その後の日本や世界の動きから見えてくることは、日本社会は男性の「会食」という名の飲み会(をコンパニオンや芸者のような女性が飾る)で、要するにホモソーシャルな関係性で全て決まる状態から全く抜け出せていないどころか、バブル崩壊後の30年でますます強化される傾向にあり、それはequalityやdiversityを掲げて様々な試行錯誤を繰り返している世界、特に先進国とは現在既にかなりの距離があるという、悲しいくらいの現実である。

さて、ちょっと前に、社会科教員、特に高校社会科教員のジェンダー格差は理系以上にある話をデータを元に発信した。

この問題、実は日本における女子の進路選択が狭まり、かつ、「社会や政治を指導するのは男性」というジェンダー規範の刷り込みに繋がって、gender equalityには程遠い現実を生む遠因になってないか、という話である。

「社会や政治を指導する」男性社会科教員と「歴史を語る」女性社会科教員

前の記事に挙げたデータは教員免許状に基づくものである。そして自分は、実際に科目担当で調査したらもっとはっきり差が出るのではないかと推察している。つまり、少ない社会科女性教員のほとんどは歴史担当じゃない?問題。しかも、院卒レベルで史料批判がっつりできる女性教員や、博士レベルで権力論研究してます!という女性教員なんかほぼいないというデータだから、「物語としての歴史」の語り部としての社会科女性教員しか許容されてないんじゃないか、問題である。前の記事を見て、いや、女性社会科教員いたよね?とちょっと思った皆様、それは歴史じゃなかったですか?

まぁ自分も専門は歴史学だから他聞には漏れないのだけど、これならかつて

a. 歴史の授業で史料批判の基礎と意義を教えていたら、何の特別授業?と聞く男性教員が現れる

b. 政治経済など公民的内容を自分が教えてると、基礎中の基礎の知識から私に教えようとする男性教員がなぜか増える。

という個人的な経験の説明もつくかなと。自分の専門が歴史学だからかな、など当時は考えていたが、多分違う。世の中の人、教員の中でも教職課程出ただけの教員の多くは、高校までの歴史と、日本だと大学史学科以降でしか学ぶ機会がない歴史学との違いなんかわからない訳で、自分の専門が…なんてことは考えてはいないだろう。要するに、極めて少ない社会科女性教員に現場で求められ、そして現実的に割り当てられるのは、「歴史物語の語り部」という役割だったりするのではないだろうか。「社会や政治を語り指導する」のはあくまでも男性で、「歴史物語の語り部」なら女性でもいい、という社会科教科内でも無自覚無批判にやられがちな役割分担は、これぞホモソーシャルな関係性を絶対に壊さない、むしろ強化する構造でしょ?女性は「歴史物語の語り部」、もっと強く言えば「男性が作った歴史物語の語り部」であって、そんな歴史を批判的に読み解く側ですらないのだから。

これは、なぜ英語国語教員は女性がやたら多く逆ジェンダー格差が発生するか問題にもつながるんだけど、初等教育では「子守」として、そして中等教育では「物語の語り部」として女性に一定の需要がある状態が、現在までずっと続いていて変わってないのではないだろうか。学校の教員構成そのものが、女性はあくまで「子守」や「物語の語り部」であるというジェンダー規範の刷り込みをしている状態、学校教育内での非言語メッセージが変わらな過ぎて、どれだけ世代がかわって若い世代が多数を占めても、見た目よぼよぼの爺さんたちが固執するホモソーシャルな関係性でしか何も決められない社会を変えられないんじゃないだろうか。そして、女性は「(男性が作った)物語の語り部」でしかないから、これだけ明確な女性差別発言があったのにも関わらず他国のようにはっきりとNoを突きつけきれず、Don't be silentと言われたところで自分たち自身の声を持ちきれず、男性の側は当事者意識がなく(もしくはそのままの方がいろいろ有利だから)黙り、結局は、まぁまぁそんな事を荒立てず許容しませんか?みたいな女性差別側にとてつもなく優しい方向に、みんななんとなーく流れてしまう、その遠因に、学校教育はなっていないかという問題提起につながる。

「地理や公民の担当はほとんど男性」って何が問題なの?

という訳で、免許云々はともかく、現実的に、日本全国で元々数少ない女性社会科教員はだいたいは歴史の担当で、地理分野や公民分野の担当はほぼ男性が占める、と仮定しよう。それの何がどうジェンダー規範の刷り込みにつながりかねない危険性を持つのか。今回は具体的に自分が体験した事例から考察したい。

先に言っておくが、自分は日本全国的にものすごーいレアケース、超が付くほどの奇跡の人で、そう断言できる理由は3つある。第一に、全国的に教員に最もなれなかったロスジェネ世代の、しかも女性社会科教員であった点、第二に、免許区分が専修免許で博士相当の学位を持つ歴史学者である点、第三に、東京出身だが地方の中等私立学校創設メンバーで、その学校唯一の社会科教員だった時期があり、かつ教科主任が自分だったために、地歴公民全てを自分で教えた経験があるという点である。こんだけ揃えば相当レアでしょ。あまりにレアケース、かなりのマイノリティだから、自分の経験をいきなり一般化するのは難しいし、教育学者に自分自身を研究対象にされちゃいそうだとは正直思う。でも、マイノリティだからこそ、ホモソーシャルな関係性でしか成り立たない現在の日本社会を無自覚にサポートしている社会科マジョリティの問題点を自覚できたし、批判できる強みがあるだろう。

「少子高齢化」の教科書記述

今回例示したいのが、地理と公民分野教科書の鉄板ネタ、「少子高齢化」である。これは歴史の教科書には記述がほとんどない、現代日本、そして世界の先進国の多くが経験中の大問題で、移民の問題にもつながる。だから、歴史以外の教科書や資料集には、当然その現実を裏付ける記述や資料が並ぶ。そして、それは福祉や税にも当然関わるから、同じ教科書の中でも繰り返し出てくる。小中高どこでも学校で少子高齢化を習わなかったという人は、40代、下手したら50代前半以下ではほとんどいないのではないだろうか。

そして今回問題にするのはその中の記述、日本において少子高齢化が進む原因「の一つ」に、女性の高学歴化と女性の社会進出が挙がっている点である。これが間違いでないことは事実だが、その点を単純に教えても、生徒たち、特に女子生徒に高等教育へ進学して学位を取ることを躊躇わせたり、また女性で社会進出すると子供が持てないんだ、というメッセージを無批判に伝えることになりかねない。それは女性の低学歴化、低収入化につながるため、実は扱いがとても難しい記述だと言える。

自分は、教科書記述が差別的だと言いたいわけではない。この部分を削除したり、今回の森発言じゃないが「撤回」したところで、あくまでも原因の一つとして女性の高学歴化と社会進出を挙げざるを得ないデータが揃っている以上、教科書でいくら誤魔化したところでどうせそんな記述は世に溢れるのだから無意味である。ポイントは、このリアル、教科書の記述を10代の生徒たちにどのように教えるのかである。ここで、全く同じテーマを、同じ中2を対象にどう授業したかという実例を二つ挙げよう。

「あなたたちの目の前に高学歴で子供がいない女性がいます。何か質問ありますか?」〜当事者としての語りの挿入

自分がこのテーマを中学地理で教えたのは、実はたった一度、学校創設初年度に入学した生徒たちが2年になった時だけである。3年目には全ての科目を自分が担当するのは厳しくなり、新たに採用した教育学部出身の男性教員に地理を任せ、歴史学者である自分が歴史と公民を担当したため、後にも先にもその一度きりとなった。

この時、自分はこのテーマのために一時間まるまる用意した。元々私立の中高一貫校で、実態はともかく批判的思考力育成を目標に掲げる学校だった上、一年目で高校受験のことは基本的に考えない!という建前を貫けたから、そのくらいの自由は許されたという特殊事情は前提としておさえてもらいたい。自分がなぜそんな計画にしたか。それは当時その学校唯一の社会科教員として生徒と日頃接する中で見えている課題が二つあったからである。

a. 視野の狭さ。田舎の、素直ないいとこの子たちが多かった上、私立で小学校のころから自家用車通学をしている生徒も半数くらいはいる純粋培養だったこともあり、中学生たちの視野が極めて狭かった。そのため、英語特区の学校で、小学校の時から英語漬けだったが、「英語を活かしたい!英語を使って活躍したい!」とキラキラした目で言う割に、具体的にどうしたいのか、何になりたいのかを聞くと、「海外旅行がしたい」とか「英語の先生になりたい」と、屈託なく答えるところがあった。その答えの良い悪いはともかく、彼らが見てる社会が「家庭」と表面的な「学校」しかないんだということを如実に表していた。

b. 「田舎のいい家庭」の実態。地域唯一の私立学校に小学校から一人または複数の子供を通わせているような家庭は、だいたいは父親が稼いでいる、または近所に住む祖父母、どちらかまたは双方の代々の家の資産が潤沢であるケースがほとんどで、母親が専業主婦率は同地域の他の学校と比べても明らかに高かった。要するに、これは私立校ではよくある話だと思うが、在籍する生徒の家庭環境にはdiversityがそれほどなかった。また、田舎にありがちな地元有名公立進学校ではなく新興私立校だったため、学年が上がれば上がるほど男子生徒が転校し、女子生徒の比率が上がっていく(当時は新しかったから、上がる見込みだった、の方が正しい)のも、その地域の「いい家庭」が持つジェンダー規範を象徴する状態だった。

そこで、一通り教科書に書いてあるような少子高齢化の内容や説明について解説した後、生徒たちに問いかけた。

「さあ、あなたたちの目の前に、教科書に書いてあるそのままの「高学歴で子供がいない」「社会進出した」女性がいます。何か質問はありますか?」

生徒は何が始まったんだという驚きと、そして、これ以上教科の(つまらない)勉強をしなくて良さそうだという期待感いっぱいの目で私を見て、そして次々と質問を始めた。

「どうして結婚しないんですかー?」

「子供欲しくないんですか?」

最初はもう芸能ゴシップ記者と変わらない、軽い好奇心だらけの顔つきで全員質問してきた。そりゃそうだよね。付き合っている人がいることを隠してはいなかったが結婚していないことは事実で、そのために余計、特に母親などには「あの先生、彼氏がいるなんて言ってるけど、あの歳で結婚してないなんて、エア彼氏なんじゃないの??」などと噂されていたようだったから、生徒たちにはもちろん興味津々の内容である。

自分はそれに一つひとつ丁寧に言葉にして答えていった。それはこの計画で事前に決めていた一番のポイントだった。変に恥ずかしがったり、変に隠したりもしなかった。とにかく一つひとつ真面目に答えた。自分が付き合っている人と今現在離れている状態をどう解消するのか、どのように仕事を得るのか、子供ができたらどうするのか、外国のどんな制度を目の当たりにしていいと思ったか、または問題があると思ったか。彼らのどんな質問もリスペクトし、真剣に答える姿勢を見せることを心掛けた。この時間の帰結はなく、オープンエンドな授業計画。目的は、教科書の表面的な記載の奥にある生身の人間をリアルに感じさせること、そして、教科書の記載にはなく、そして生徒たちが日常見ているような狭い世界とも異なる別の視点があるのだということを、彼らにイメージさせることだった。

ゴシップネタを探るノリで始まったこの授業の途中で女子生徒が言った。

「やだ、先生、真面目に答えてる・・・」

そう、その時だけは、いつもの学校のいつもの担任の先生ではなく、35歳の、高学歴で留学経験もあり、社会進出した一人の日本人女性として生徒たちの目の前に立った。そのリアルを感じてもらいたかった。その時すべてが伝わらなくても全然構わなかった。ともすれば30歳で女の子の人生が終わるくらいのイメージでいるの?ってアイドルみたいな人生観になりがちな中学生たちが、将来30代になった時ふと思い出してくれればいい。それでも十分価値があると判断し、一時間まるまる使う計画にしたのである。

中にはプライベートに土足で踏み入ろうとするような質問もあったけど、相手は生徒だから、そこはうまく質問をコントロールした。真面目に答えていくと、生徒たちは気が付く。「先生、子供欲しくないのー?」なんて気軽に聞くことができない現実を。そして、この問題が自分たちにとっても無縁ではないのだという当事者としてのリアルを。もし担任の先生が自分の子供がどうしても欲しいと、自分たちよりも別のことを優先させたら、このままだと担任を続けてはくれないのかもしれない。修学旅行一つ一緒に計画することは難しいのかもしれない。今はそういう社会なのかもしれない。

自分の真面目な回答からそう実感した生徒たちは、打開策を考えて提案し始める。こうすればいいのか、ああいう支援があればいいのか、だったらこういうのも必要なんじゃないか。もちろん、それにも一つひとつ真面目に答えていく。そうだね、そういう支援があったらこういう点で助かるね、とか、それだとこういう場合どうしたらいい?など。だったらこれは?だったらこっちは?もちろん全員ではないにしろ、生徒たちが意見を出し合う雰囲気に教室が包まれたまま時間が終わった。まとめは一言。

「ね?この問題はそんなに簡単じゃない。そして、例えば私みたいな女性一人が考えてどうなるものでもない。だから社会みんなで考え続けないといけないんだよ。」

結局答えなんか何もない。でも、教科書の記述にとらわれず、これから社会に出ていく彼らの中に問いの種を残したかった。

自分は地理や公民の授業で、この別の視点を投げかけて議論させ、オープンエンドでまとめる手法を使うことはよくあった。例えば領土問題は同じ手法を使った。教科書や指導書をそのままただ読んでそのまま教えるだけなら、もう中高生にもなれば生徒にだってある程度できる。教科書の端的な記述をいかに広げるか、二次元の表現に別の視点からスポットを当て、三次元の社会をいかに意識させて考えさせるか。ここがあくまで教師の仕事である。

「女性で高学歴で子供がいない人いるでしょう?ほら、〇〇先生とかね!」~当事者のいない男性による語り

でもまぁ、自分で書いてて思うけど、金八先生とは違う意味でえらく暑苦しい教師だよな(笑)。若かったなぁーと、自分で書きながら思わず失笑してしまった。何もこんなに自分を削ってまで授業する必要なんかこれっぽっちもなくないか?他国のデータでも持ってきて考察させるとか、やりようはいくらでもあったろうに。こんなの長くは続かないし、それに何よりどこでも誰にでもできる手では絶対にない。教師のプライベート保護の問題から考えてもかなりな禁じ手である。そして、この授業計画の一番の問題点は、オープンエンドは決まっているが、その過程で生徒が社会を考える方向性にどう持っていくのか、その具体的な道筋というか、少なくとも質問形式の中でどういう「布石」をどこで打つのか、という計画が基本的になかったことである。その部分は、自分は完全に学校創設メンバー教員であった自分と、一期生だった生徒たちとの関係性に依存していた。彼らなら、創設されたばかりの学校で、様々な行事やその他教務的な仕事も行っていた自分に、今辞められたら自分たちの学校生活自体がヤバいことをわかっている、所詮はそういう教師側の自信というか欺瞞にも似た感情に裏打ちされた授業計画で、自分でも別の場では同様にできるかはかなり未知である。

というように、決して汎用性が高い、いい授業をしたわけではなかった自分だが、それでも、この授業の数年後、同じ学校で別の男性教員たちが同じ中学地理を担当し、全く同じ「少子高齢化」を教えた話を聞いた時に、初めて違和感を覚えた。そして、それが実は自分が最初にこの社会科教員ジェンダー格差問題を自覚した時だった。それまでは、社会科が男社会なのは知っていたし、社会科教科研究室がやたらタバコ臭いとか、社会科の飲み会の酒量半端ないとか、友達には社会科の「男社会」っぷりをネタにしていたくらいだったけど、それが何か問題があるなんて思ったこともなかった。自分が生徒のころから、正直それが当たり前すぎるくらい当たり前だったからである。でも、別の男性教員たちの授業の話を聞いた時に、そうか、こういう問題があるのか、と正直うなってしまったのである。

男性教員が担当していた学年は、自分は教えたことが一度もなかった。担任をしたこともなかった。その学年の地理の授業中、同じ「少子高齢化」を教える時に男性教員は生徒たちに以下のようなことを言ったそうである。

「この学校にも、高学歴で結婚もしていないし子供もいない先生がいるでしょう?ほら、Schweinchen先生とか。ね?」

しかも、それを「言いましたよー!みんなあーって言ってました!」と、にこにこ悪びれることもなく自分に報告しちゃうところが、何ともまぁ若い教員でして。彼が報告してくる明るい様子は何より、教室内でその話題がおそらくは生徒たちにウケたのであろうことを示していた。その時自分は、自分のことを他に知る機会もない、自分の語りを聞く機会がない生徒たちの前で、授業中に、そんな風に無批判に例示するのは社会科教員としてどうなんだ、と言った。当の男性教員は自分の反応に驚いてはいたが、根本的に何がだめだったのかわかっていない顔をものすごくしていた。多分、本人はもう忘れているだろうけどね。

でもね。彼だけが特殊、彼だけが若く浅はかだった、とは言い切れないんじゃなかろうか。そういう授業、女性の当事者が知らないところで「結婚していない」「子供がいない」という表面的な事実だけを教科書記述を補完する事例に安易に使う授業、実はあるあるだったりしませんか?この男性教員がクラス内でこの話が盛り上がったと自分に報告してきたのは、自分が「社会科教科主任」の立場にあり、女性教員である自分の方が先輩で年上だったからである。そんな学校、たぶん全国津々浦々探したって他にそんなにはないだろう。だから、男性社会科教員ばかりの多くの学校で、そのような言説に女性が異を唱える機会もなく、男性同士では事実は事実だからとことさら疑問視することもなく、スルーされているって事例、全国で相当数あるような気がしてならない。

中等教育社会科教員ジェンダー格差がもたらす授業の「偏り」

誤解がないように言っておくが、自分はどちらの事例がいい授業だったかを読者に問いたいのではない。以上のように、女性教員、しかも30代だった自分と、男性教員で20代だった同僚とでは、同じ日本社会でも見えることに違いがある。相手が50代や60代の男性でも違うだろう。そうすると、同じ教科書の記述を扱い、授業をするにしても、当然大きな違いが出てくる、ということであり、教員構成に偏りがあれば、教え方にも当然偏りが出てくる、という当たり前の事実こそに問題はないか。そういう話である。

もちろん、男性社会科教員だって皆がこんなことをしているとは全く思わない。が、では、上のようなやり方で単に教科書記述を補足する授業の問題点はわかっている男性教員でも、男性の立場から育児休暇の不備などを加え、この記述に当事者性を持って別の語りを挿入し、教科書記述の奥を考察させる試みはどのくらい可能だろう。また、女性教員だってもし地理や公民を担当した場合、現実的にどの程度ここを深堀りできるだろうか。正直時間の問題もあるでしょう?何よりそれが試験に出る太字知識だったりするわけで、多くの場合はただ単に知識として教えるか、できてせいぜい、それだけが理由じゃないけどね、と説明を少し加える程度で流さざるを得ない現実は、やはりどこにでもあるだろう。

そして、女性社会科教員が圧倒的に少ないという現実は、この話題に暑苦しいほど反応して時間を費やす覚悟の教員などほとんどいないということを示し、全国中等教育での「少子高齢化」問題の扱いが、知識としてするっと教える「中立」の立場か、「ほらね?あの女性見てごらん。本当でしょ?」って、当の女性の言葉なく、未婚や子供がいないという外側の情報だけで教科書記述を補完したまま流す立場に終始してしまわないか、と思うのである。

中等教育学校教員ジェンダー格差が中高生に発信する非言語メッセージ

ここで自分がやはり問題にしたいのは、学校教員のジェンダー構成、ジェンダー格差、多様性のなさ。

例えば、社会科教員がこの部分を知識として教え、あえて具体的な教員名を出して例示することはしなかったと仮定しよう。その場合、どうなると考えられるか。本当に単に知識としてふーんで終わる子もいるだろう。だけど、相当数の生徒にとっては、自分たちの中で、その学校にいる「未婚の女性教員」を思い浮かべることになるのではないだろうか。中高生にとって、学校教員というのは家族の次に身近な「社会進出した働く大人」だからである。その時、女性教員はそもそもその中高の中にどのくらいいるのか。また、その中で仕事も管理職クラスの仕事をバリバリして、結婚しているしていないを問わず子供も育てている女性教員がはたしてどのくらいいるだろうか。中高で働く女性教員は初等教育の場合と違ってもともと比率が少ないわけだが、その多くがまだ若くて結婚していない女性教員か、そこそこの年齢だが結婚していない女性教員か、または結婚していても子供はいない女性教員か、だったりはしないだろうか。生徒が自分の学校の教員たちを思い浮かべたとき、自分たちで「そればかりが理由じゃないでしょ」とか「それは確かに理由の一つだけど、その問題をこうして解消すればいいんじゃないか」と生徒たち自らが考えられるだけの資料を、学校教育現場は示せているだろうか。

今まで会った女性の教員の先輩方をうーんと思い浮かべても、多様性にはどうしてもかけている。要するに、社会科教員のジェンダー格差はもちろんだけど、学校教員のジェンダー構成や、管理職の女性比率そのものが、「少子高齢化」の教科書記述を見事に補完する非言語メッセージとなっているのである。

このような少子高齢化の話題は小学校では習わない、中等教育でのテーマである。10代の中等教育の生徒たちはまだ若く、男女問わずキャリア形成にだって結婚にだって子供を産み育てることにだってまだたくさんの夢を持っていていいでしょう?その時期に、地理公民の教科書に何回も太字で登場する少子高齢化とセットで、ただ事実だからと女性の「高学歴」や「社会進出」が少子高齢化の原因だという説明が、主に男性社会科教員の口からたいした批判もなく流され、中等教育学校の教員構成そのものにジェンダーの偏りがあり、また男女問わず多様性がないと、生徒達、特に女子生徒たちに対して、結婚したければあまり高学歴だとダメなんだとか、社会進出したら子供が持てないのかも、というメッセージを発信することになるのではないだろうか。

教室の中の「中立」という政治的偏り ~現実的にジェンダー格差がある学校教育内での「中立」とは

 
最後に問題にしたいのは、社会科教員を悩ます教室の中の政治的「中立」の問題である。左翼的、右翼的な教師個人の思想信条を教室内であまり出すと、いわゆる「偏向教育」と疑われて問題視される。そのため、地理や公民だと、少子高齢化のような現在の政治や各政党の選挙公約などにもかかわるようなトピックを扱う場合、とりあえず内容の語って終わりたい心情、とにかく重要な知識であることを強調したり、試験に出るぞ、齢の字間違えるなよ!なんて話で終わらせ、スルーしたい教員の心情って正直あると思う。公立なんて特に。公民の授業って特に教師が能面みたいな顔して教えてたよな、と公立校出身者が言っていて、言われてみればそうなるかもと笑ってしまったが、もし思い浮かぶ公民担当社会科教員の顔が能面だったら、教室内で「中立」を保とうとしている表れかもしれない。

でも、それって「中立」なのか。

最初から言っているように、社会科教員のジェンダーには偏りがある。社会科だけでなく、中等教育段階の学校教員ジェンダー配分には偏りがある。男性が管理職で、女性は担任のような役割にも偏りがある。また、男女を問わず教員の年齢構成や家族、一人ひとりがどういう人生を望んでいるかなどの多様性だって言うほどなくて偏っている。そして、当の教科書の記述そのものにもそれぞれ特徴があり、場合によっては偏りがある。そんな中で、社会科教師だけが能面のような顔をし、こうしたトピックを知識だー重要だー覚えておけよーと教えるのは、本当に政治的に「中立」を保証していると言えるのか?全て偏っている現状をただ受け流すのは「中立」か?

森の発言に象徴されるように、ホモソーシャルな関係性中での強者たちは、女性の進出、女性の発言権の増大を煙たく感じる。こうしたホモソーシャル強者の願いと、「少子高齢化の原因は女性の高学歴化と社会進出」という教科書記述は相性がものすごくいいのは明確である。男性社会科教員でも女性社会科教員でも、学校内という中高生に見えやすい社会のジェンダー格差もある中でこのトピックを教える時に、能面のような顔をしていたら、結局はホモソーシャル関係だけの社会を無批判に補完する側に立つことになり、その姿を生徒に見せることになる。ねぇ、それは「中立」かい?

一見すると、自分が一時間を費やした質問授業は「中立」的とは決して言えず、男性教員がやった授業の方がまだ「中立」的なのだろう。だけど、学校内教員構成にも、その学校の場合は生徒達の家庭構成にも偏りがあることが明白な中で、今思えば暑苦しいくらいこの記述に自分が反応したのは、やはり当事者の一人として女性の語りを挿入し、海外での取り組みの視点を入れて、バランスを取りたかったからである。そういう意味では、自分の授業計画だって十分教室内の政治的「中立」を保証するものになると言えないか。

この問題は、社会科教員だけではおそらくどうにもできない。一人ひとりの社会科教師の言説を「偏向教育だ!」と指摘する前に社会全体で考えて欲しい。

この中等教育社会科教員ジェンダー格差については本当に見過ごされている状態で、他の管理職女性の少なさ、理系女性教員の少なさとかがやっと指摘されている現状では、正直偏りの解消には時間がかかるだろう。つまり、しばらくは偏りっぱなしということになる。

これだけ偏った学校の教員構成の中で、そして何より、先進国の中では群を抜いて男性に偏ったホモソーシャルな関係性が動かしている日本社会の中で、どうやったら「中立」的に、生徒にバランスよく、現代国際社会におけるdiversityの必要性を、多様な立場を互いに尊重する今の社会の在り方を考察させられるのだろうか。そして、男子生徒たちはもちろん、女子生徒たちに、自分の語りの言葉を持たせるにはどうしたらいいのか。

ほーらやっぱり。中等教育社会科教員ジェンダー格差問題って結構、今の日本社会が抱える問題を解く鍵を握っているんじゃないかな。

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