ゲーテ・シュタイナー的自然科学者としての私、その1

■子ども時代(1960年頃から)

「蟻の巣の全貌を見る」とか「タンポポの根全体を見る」といった目標でスコップを持ち出していたことを覚えています。ただ、どちらの成功しませんでした。

====== 要注意、ここから優等生だった自慢話っぽい内容 ======

小学校2年生時の愛読書は『理科なぜなぜ教室』でした。内容は覚えてはいませんが、読んでいたワクワク感の名残はあります。また、教師だった父が学研の雑誌『科学』を毎月持ってきてくれ、それも楽しみでした。ただ一つ恨みもあります。3年生の時に学校の課題で「アサガオの観察」がありました。アサガオの成長の様子は『科学』にも掲載されていて、鉢植えの双葉、そして本葉が『科学』のイラストと同じと確認しました。それによって、「観察しなくても、本を見ればいいじゃない」という科学者としては本末転倒な姿勢を身に付けてしまったというのがその恨みです。

その後も科学への関心は強く、『科学』の付録を作るとそのヴァリエーションをさまざまに工夫していました。そのような生活ですから、学校の理科授業はすべて余裕で理解していたのだと思います。6年生時に父母会から戻った母が「理科では平均点が99点の子がいるって」と言いました。それに対し私は「それ、Mu君?」と聞き返しました。彼はクラスで一番の秀才だったからです。すると母は、「アンタよ!」と言います。小学生ですから点数のために勉強したことなぞなく、帰ってくる点数にもほぼ無関心でしたが、そう言われてみれば理科のテストは「百点じゃないことも稀にあった」という感じでした。

■中学校時代(1966~69年)

小学校6年生、中学3年生では土曜の午後に中野区主催で希望者対象の理科教室があり、そこで理科好きな仲間とともに特別な実験をさせてもらっていました。小学校時には、学校ではリトマス試験紙で酸アルカリを判定するだけだったのが、pH試験紙まで使わせてもらりました。中学校ではバーナーを使ったガラス細工、ラットの解剖等々時間がややかかる実験もさせてもらいました。

中学校の授業は二人の理科の先生が実験中心で教えてくださり、種々の現象を直接に体験できたことは非常に大きな財産になりました。金属塩については、硫酸銅、塩化銀など授業で紹介されたものだけでは満足できず、10程度の金属の塩化物、水酸化物、硫酸塩、硝酸塩、炭酸塩すべてについて、確か小山くんと一緒に質問に行きました。このとき、硝酸塩ではどの金属も水溶性の塩になることを知り、「なぜ?」の思いを強くしました。

このようですから、理科の試験勉強などはしたことがなく、定期試験というと英単語をひたすら暗記したのを思い出します。

■高校時代(1969~72年)

高校生になっても授業内容は聞いているだけで理解できましたので、マイペースで関心を広げていました。しかし受験勉強となるとそうもいかず、参考書や問題集を広げて学習しました。

当時の教科書は物理B、化学Bというもので2cm弱のかなりの厚みでした。ところが学校授業の時間数が足りず、両科目で教科書の半分近くの内容を独習しなくてはなりませんでした。それでも私にとっては理科で点数を取ることは楽な仕事でした。

当時の東大理系の入試は英数理が120点、国語が80点の440点満点で、私が受験した理科2類では220点を取れば合格でした。その状況で物理は満点の60点、化学が55点程度を取っていましたから、英数国320点中の105点程度を取って合格したのです。英数国では3割に満たなくてもOKだったのです。

============= 自慢話っぽい内容は終わり =============

■大学時代(1972~78年)

「余裕の理科」という状況は大学に入ると一変しました。1年生時の電磁気学、物理化学等々が、それまで見たこともない数学の演算がいきなり導入されるなどしてまったく理解できないのです。それに対し現象のメカニズムが中心であった動物学、植物学くらいがかろうじて理解できた程度でした。そうした生物系の科目にしても、学ぶにつれて「自分が研究できそうなことは、すでに皆解決されている」という閉塞感が広がっていきました。それもあって研究職はあまり望まなくなっていきました。

そのような訳で大学時代はあまり勉強もせず麻雀やスポーツを楽しんでいましたが、卒業時期に問題が起きます。不況で就職が難しくなったのです。案の定、就職試験に落ち留年しました。2回目の就職活動では時期的に「内定」の語は使えないなか、某企業で好感触の言葉をもらい、帰りには人事部長の丁寧なお見送りを受けました。それでほぼ安心していたところ、その後の音沙汰がなく、就職戦線の終盤になって恐る恐る確認の電話を入れたところ、不採用を知らされました。そのとき、ショックで胃が収縮するのがわかり、トイレに駆け込みました。

こうした危機に直面して自問せざるを得なくなりました。
 ・自分が役に立てる事柄
 ・自分に能力がある事柄
 ・自分が仕事としてやっていて楽しかった方向
これらを総合して教師を目指すことにしたのです。
これを決めてからは背水の陣ですから、大学時代では一番勉強をしました。

大学6年生で教職の単位を揃え、教員採用試験を受けました。ほとんどお会いする機会はありませんでしたが、研究室の教授も私のことは気にかけてくれていたようです。もう時効ですから当時の裏話を書きます。

千葉県の採用試験を受けた数週間後、教授に呼ばれました。「採ってくれる学校があるから、面接に行くか? でも面接を受けてからの辞退はできない」というような内容でした。その意味がよく掴めていなかった私に助教授が説明してくれました。「森くん、君は本当は落ちているけれど、(コネで)どうにかしてくれているんだ」と。別に私から頼んだわけではありませんから、釈然としない思いはありましたけれど、背に腹は変えられないという思いで面接を受け、その学校に採用されたのです。

私は農学部でしたが、研究室の教授は理学部数学科の出身で、面接を受けた校長も東大卒の数学の先生でした。おそらくこのあたりのコネが発動されたのでしょう。コネという釈然としない思いはありましたが、その後、東京都の採用試験では合格の通知をいただきましたので、自分の中では「能力は保証された」とOKを出しました。ただし、採用試験の準備はバカバカしい内容で、「バカにならなきゃ勉強できない」という感じでした。

教員のコネ人事を感じる事件はその後にもありました。某芸術科目の教師に欠員ができたときに、教員免許未取得の人が採用されました。採用待ちの非常勤の先生も居たはずたと思います。そしてその先生は採用後に免許を取得しました。ちなみに人物も才能も優秀な人でしたので、その点に問題はなかったのですが、過程は不透明でした。



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