朗読に不適な『魂の暦』第26~37週

2019年に翻訳したものを2020年になって全体の一貫性を保つために推敲中です。以下はまだ未推敲です。

復活祭後;第26週、1912年9月29日~10月5日
ミカエル祭の雰囲気

Natur, dein mütterliches Sein,
  自然よ、その母性的存在よ
Ich trage es in meinem Willenswesen;
  私はそれを私の意志本性に担う
Und meines Willens Feuermacht,
  そして私の意志の炎の威力、
Sie stählet meines Geiste Triebe,
  それは私の霊的な伸び芽を鍛え
Daß sie gebären Selbstgefühl
  その芽が自己感情を生み出す
Zu tragen mich in mir.
  私の中で私を支えるために

春から夏にかけて人間は外界の自然の中に眠り込んでいます。ところが秋分を過ぎ、このミカエルの季節になると第25週では予感であった内面に向かうベクトルがはっきりと方向を確定します。
第1行には、それまで人間が意志や感情を向けてきた事柄すべてを「自然よ」という言葉に集約し、第2行ではいわばそれをすべて自分の内に取り込みます。ただし、思考、感情、意志の意志の側に担うことになります。これは人間に対し力強く働きかける反面、そこに意識は及びません。それでも意志の領域から働きかけて、霊の芽、つまり霊においてこれから伸びようとするものを強めます。おそらく、太陽が優勢であった季節に人間がどれだけ深く外的自然界とかかわったかで、そうした働きかけの強度が変わると思われます。「霊の芽」は伸びる力は秘めるものの、それだけでは伸びる方向は確定しません。行き先はわからずとも、まずは感情の領域に自己感情を生み出します。ある意味でこの芽は当て所のない旅に出るのですが、芯だけはしっかりと与えられるのです。


復活祭後;第27週、1912年10月6日~10月12日

In meines Wesens Tiefen dringen:
  私の本性の深みに入り込む:(主語未記載)
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,
  予感に満ちたある憧れを活性化する、(上とは別の主語で未記載)
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,
  (2行目のための主語)私が自己観察しつつ自分を見出す
Als Sommersonnengabe, die als Keim
  夏の太陽の贈り物として、それは芽として
In Herbstesstimmung wärmend lebt
  秋の雰囲気の中で温めつつ生きている
Als meiner Seele Kräftetrieb.
  (また)私の魂における諸力の伸び芽として。

文法的には謎です。1行目は命令形ではありませんし、コロン(:)で終わっています。そして動詞 dringenに対する複数形であるはずの主語がありません。
万全の自信を持って言えるわけではありませんが、その未記載の主語を私は前の週の言葉から探します。すると複数形の名詞は「私の霊的な伸びる芽」だけです。それが私の本性の奥底に入り込むことによって、憧れが掻き立てられると解釈しておきます。

2行目はerregtという他動詞で始まるものの、ここでも主語がありませんし、それは単数でなくてはなりませんので、一行目とは別な主語です。はた氏と鳥山氏は「憧れ」Sehnenを主語と見て、4行目以下の内容が私の内に生じてくると解釈されています。
私の解釈では、2行目は仮の主語として用いられるesが省略され、Daßで始まる4行目以降の内容が実質上の主語になると解釈しています。
「憧れ」Sehnenとは、求める対象が曖昧な言葉です。場合によっては、自分が何に憧れているのかも知らずに欠乏感だけを感じることすらあります。それに対し、4行目以降の内容はかなり具体的です。ですので、その内容を憧れと考えますと「憧れが具体的な内容を持つ」という矛盾に陥ります。その点、私の解釈ですと、文法的には確証はありませんが、秋の雰囲気における具体的な状況が何を求めるかもわからない憧れを刺激していることになります。

この時期に自己観察をすると、自身が夏の太陽からの贈り物であり、それがさまざまな可能性を担っていることを感じとるのです。まだ何になるかはわからずとも。そうした「不特定感」は「〇〇として」という意味の als を3回も使用することで表現されているのかもしれません。

「伸び芽」と訳したTriebは、第26週では霊的なものでしが。それが第27週ではより人間に近づき魂的なものになっています。人間は夏の力をますます内面化していきます。

「憧れ」という感情について補足しておきます。日本語ですと「実現はほぼ不可能だけれども、それを知りつつ望んでいる状態」と言えるでしょう。ですので、特定のスターに憧れることも可能です。ドイツ語も似たニュアンスですが、意味が多少違い自分が望んでいる対象が定まらない感じです。自分以外の何か、現状以外の何かを希求しているものの、それが何であるかもわからない状態です。『霊的実相から観た宇宙進化』の第4講でルドルフ・シュタイナーは1811年に自殺しているハインリッヒ・フォン・クライストについて「このように満たされぬ憧れを持った精神も現代の霊学と精力的に取り組んだなら魂の充足が得られていたでしょう」と述べています。クライストは100年後に生じてくるものに、それが何であるかも知らずに「憧れて」いたのです。

復活祭後;第28週、1912年10月13日~10月19日

Ich kann im Innern neu belebt
  内面が新たに活性化され私にはできる
Erfühlen eignen Wesens Weiten
  自らの本性の広がりを感じることが
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen
  そして力に満たされた(下行からの)考えの放射を
Aus Seelensonnenmacht
  魂の太陽の力からの
Den Lebensrätseln lösend spenden,
  命の謎を解きつつ捧げることが、
Erfüllung manchem Wunsche leihen,
  多くの望みに成就を与えることが、
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.
  その望みにおいて希望は既に翼を麻痺させていた。

内に力を感じ始め、ここでは三つのことができると描写されています。
自らの本性の広がりを感じる
考えの放射を捧げること
望みを成就させること
1. では外の世界ではなく内なる世界の広がりを自覚することがわかります。
2. の「考えの放射」は少しわかりにくい概念です。私が「考え」と訳した原語はGedankenで、以前にも書きましたが、「考える」という動詞 denken の過去分詞形から作られた名詞です。これを高橋氏は「思想」、はた氏と鳥山氏は「思考」と訳しています。
しかし、ルドルフ・シュタイナーが言うGedankenはもっと大きな意味で、「宇宙の設計思想」+「宇宙構築力」と考えても大げさではありません。人間はこれを思考(denken)によって捉えるにしろ、それは影的になり「宇宙構築力」は失われ、「宇宙の設計思想」だけになっています。
しかし、第28週での考えの放射の威力は宇宙的「考え」と人間的「考え」の中間くらいかもしれません。なぜならそれが「魂の太陽の力」から来ているからです。この「魂の太陽」という表現がその微妙さの現れです。人間の考え(Gedanken)が単に影ではなく力を持ち始めるとしたら、それは人間が創造的になったときだけです。
そして、3. では希望を失いかけていた願いを成就させていくことができると述べられています。

復活祭後;第29週、1912年10月20日~10月26日

Sich selbst des Denkens Leuchten
  思考の照射がそれ自体で
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
  内において力強く点火すること、
Erlebtes sinnvoll deutend
  体験したものを(下行から)有意義に意味付けつつ●
Aus Weltengeistes Kräftequell,
  世界霊の諸力の源から、
Ist mir nun Sommererbe,
  (冒頭2行は)今や私には夏の遺産●
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
  秋の平安、そして冬の希望でもある

第29週でいよいよ「思考」が登場します。思考の照射がいわば自然点火するのです。内面において、しかも力強く。
ここで、他の訳者は思考に「輝き」という訳語を加えています。それに対し私が「照射」としたのは、leuchtenという語のニュアンスが、「それ自身が光ること」よりも「他者が照らし出されること」に重きがあるからです。ですからたとえば、太陽はleuchten しますが、星はしません。

次には、「体験したことを、宇宙霊の諸力の源から有意義に意味付ける」と表現されています。夏の一つ一つの出来事は、すべて宇宙霊による創造活動の結果です。そして、私たちはそれを経験してきています。とりあえずは、感覚知覚でしかありませんが、その背景には宇宙霊の活動があります。そうした霊的な意味づけを体験した事柄について行なう季節に入って行きます。過去としての夏、平安の中で思考する秋、そして次への準備に入る冬というかたちで。


復活祭後;第30週、1912年10月27日~11月2日

Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
  魂の太陽の光の中で 私にそれ(2行目)が芽吹く
Des Denkens reife Früchte,
  思考の熟した成果が、
In Selbstbewußtseins Sicherheit
  自己意識の確実さの中で
Verwandelt alles Fühlen sich,
  すべてが感情へと変容していく、
Empfinden kann ich freudevoll
  喜びに満ちて私は感受することができる
Des Herbstes Geistes Wachen:
  秋の霊の目覚めを:
Der Winter wird in mir
  冬は私の中で
Den Seelensommer wecken.
  魂の夏を目覚めさせるだろう。

4つの文からなるこの週の骨組みは、
  私に成果が芽吹く
  すべてが感情に変容する
  霊の目覚めを感受できる
  冬が魂の夏を目覚めさせる
となります。そこに修飾語がからんできます。

さて、前の週で思考が現れ、そこでの熟した成果が魂の太陽の中で伸びていくとあります。春における植物の芽生えと対称をなす内面での発芽と成長です。
3、4行目は、すべてが感情へと変容するとあり、しかもそれがクリアな自己意識の中で行われます。
思考、感情と並んだ後で、「感受」つまり、何かを感じ取る領域について述べています。ただ、「思考」「感情」が名詞で表現されたのに対し、「感受」は動詞です。名詞による表現は、事実描写的な印象を与えるのに対し、動詞での表現は「私」がそのことの主体であることがより明確になります。
そして最後に未来形の wird で表現される冬への展望が述べられています。
およそこのような内容であるものの、詳しく見ていくと解釈に戸惑う部分もあります。それは1行目のmir(私に)です。in mir という表現であれば「私の中で」という意味で内容的にも矛盾なく理解できます。ところが「in」はなく、単に「mir」(私に)なのです。動詞がsprießen(伸びる)なので、「私に向かって伸びてくる」という解釈の可能性も捨てきれません。したがってここではとりあえず、「私の中で」と「私に向かって」の両者のニュアンスがあると考えていただくしかありません。


復活祭後;第31週、1912年11月3日~11月9日

Das Licht aus Geistestiefen,
  霊の深みからの光が
Nach außen strebt es sonnenhaft.
  外に向かって太陽のごとくに力を出そうとする
Es wird zur Lebenswillenskraft
  それ(光)は生命の意志の力となる
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
  そして感覚というボンヤリとしたもののなかで照らす、
Um Kräfte zu entbinden,
  それは諸力を解き放すためであり、
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
  その諸力とは、魂の伸び枝からの創造の威力を
Im Menschenwerke reifen lassen.
  人間の業績の中で成熟へともたらす。

冬が近づき外の世界が暗くなるにつれて、内面の光はますます強くなり、外にすら向かい始めます。また、内側では「思考」「感情」に続き「意志」にまで、つまりより深くにまで内面の光が作用します。ルドルフ・シュタイナーは後に『一般人間学』の中で、「感覚」や「感受」は認識の領域に属するのではなく、意志の領域に属すると言っています。したがって、「感覚というボンヤリとしたもの」への作用も意志領域への働きかけとみなすことができます。
しかし、この詩の中でのその後の展開はやや複雑ですので、骨組みだけを取り出しましょう。
●骨組み
  諸力を解放するために感覚を照らし出します。
  その諸力が創造の威力を成熟へともたらします。
●「創造の威力」の説明
  魂の伸び枝から生じていて、人間の業績の中で成熟する
このように見ますと、2文からなるこの詩の主語は文法的にも、内容的にも非常に明確な Das Licht(光)であるのに対し、その光が作用を及ぼす意志領域では表現も錯綜したものになっています。

復活祭後;第32週、1912年11月10日~11月16日

Ich fühle fruchtend eigne Kraft
  私は感じる、実らせるものとして、自らの力を
Sich stärkend mich der Welt verleihn,
  強まりつつ、世界に与えるのを、
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
  私の固有存在を私は感じる、力づけつつ
Zur Klarheit sich zu wenden
  明瞭さへと自らを向けるのを
Im Lebensschicksalsweben.
  人生の運命の織りなしの中で。

1,2行目には装飾句が多く、意味が不明瞭になりがちなので、まず文章の骨組みを明確にしておきます。前半部の骨組みは、
  私は、自らの力を、世界に与えるのを、感じる
となります。それに加えて、「自らの力」を「強まりつつ」が修飾します。また、「実らせるもの」は「与える」を修飾していると考えています。はたりえこさんや鳥山雅代さんは、強めることと実らせることをともに「自らの力」を修飾すると解釈されていますので、この点は見解が異なります。
3,4行目の骨組みは次のようになります。
  私は、私の固有存在が明瞭さへと向くのを感じる
そこに「力づけつつ」が加わり、これは「私の固有存在」を修飾します。そしてそれらすべてが、「人生の運命の織なし」の中で行なわれます。
3行目の動詞は主語がichなので本来なら1行目と同じに fühle となるはずですが、最後の母音が省略されていると思われ、それによってこの行では母音で終わる単語はなくなります。
最後の行は、日本語で言う「熟語」に相当する幾つかの単語を連結した単語で終わっています。つまり、Leben=人生(生命、営み) + Schicksal=運命 + Weben=織なし です。前の週も特殊な合成単語である Menschen=人間 + Werk=成果(仕事、作品)で終わっていて、そこに関連を感じます。単純には、週が進むことでよりしっかりとしたものに構築されている印象を受けます。
この詩には文法的に謎があります。前後半にそれぞれ fühlen(感じる) という動詞が中心に、
  〇〇するのを感じる
という構文で構成されています。その〇〇にあたる第二の動詞が verliehnとwendenです。ところが、verliehnの方はzuのない定形(英語で言うtoなしの不定詞)、wedenはzuを伴った定形(英語で言う to+不定詞)となっていて、形が違います。謎です。

復活祭後;第33週、1912年11月17日~11月23日

So fühl ich erst die Welt,
  そうして初めて私は世界を感じる、
Die außer meiner Seele Miterleben
  それは私の魂の共体験の外側で
An sich nur frostig leeres Leben
  それ自体では単に凍りつく空虚な営み
Und ohne Macht sich offenbarend
  そして威力を伴わず、自らを開示しつつ
In Seelen sich von neuem schaffend
  魂内で自らを新たなものから創造しつつ
In sich den Tod nur finden könnte.
  それ自体の内には死のみを見出しうるという。

文としての骨組みは、「私は世界を感じる」だけです。そして2行目からはその「世界」を修飾する副文が最後まで続きます。
この文がかなり修飾的でどこへ行きたいのかわかりにくいです。
その骨組みは第2行の冒頭の関係代名詞 Die と第6行がつながったもので、次のようになります。
  世界は、それ自体の内には死を見出しうるのみという。

そして第2行目から第5行目まで「世界」を修飾する字句が並びます。内容は魂の外と中という2つの状況での状態です。私の魂の外が2,3,4行目で、魂内が5行目です。
外側では、
「それ自体では単に凍りつく空虚な営み」であり、「力なく自らを開示」する状態です。

ところが魂内では状況が異なります。「新たなものから創造しつつ」とされ、いわば一筋の光明が見えます。世界だけでは死のみを見出しうるものが、魂内では命を持つのです。
実際ルドルフ・シュタイナーは、人間の魂と世界は分離しているのではなく、人間魂による世界への参与、人間魂による世界への力づけがなくては宇宙的意味での進化はありえないと述べています。そうした人間魂から世界への力づけを最も強く感じ取るのがこの週なのかもしれません。


復活祭後;第34週、1912年11月24日~11月30日

Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
  古く守り置かれたものを神秘な仕方で
Mit neu erstandnem Eigensein
  新たに復活した個的存在とともに
Im Innern sich belebend fühlen:
  内において活性化するのを感じろ:
Es soll erweckend Weltenkräfte
  それは目覚めさる作用をしつつ世界諸力を
In meines Lebens Außenwerk ergießen
  私の生活という外的作品の中に注ぎ込むはずであり
Und werdend mich ins Dasein prägen.
  なりつつ私を存在へと刻み込むはずである

前半3行の骨組みは、主語のない命令形の文で
 「古く守り置かれたものを感じろ」
です。
さらにそこに、「神秘な仕方で」、「新たに復活した個的存在とともに」、「守り置かれたものが活性化するのを」が感じろに加わります。
後半3行は、
 「世界諸力を注ぎ込む」と「世界諸力を刻み込む」の2つが骨組みです。
注ぎ込む方は「私の生活という外的作品に」注ぎ込み、刻み込む方は「存在へと」刻み込みます。

この詩の前半は「内」、後半は「内から外」が舞台です。第32週は「内」の内容で、第33週が「外」の内容でした。ですから、この復活という語が現れる第34週(今週)は、それらが総合された内容です。
そこでまず、「内」の内容を見ると、春から夏にかけて外界から受け取ったものを指すと思われる「古く守り置かれたもの」を「復活した個的存在」と共に活性化されます。
毎回のことですけれど、ルドルフ・シュタイナーの詩ではすべてが理念的表現で、具体的な内容は登場しません。「古く守り置かれたもの」と言われても、具体的な内容は各自が、毎年違ったかたちで創造的に想像しなくてはなりません。この「理念的なものから個別的、具体的なものを創造的に想像する能力」が人類には不可欠ですし、これが萎えていることが物質主義全盛の原因とも言えます。その意味で、この『魂のこよみ』もルドルフ・シュタイナーによる人類救済のツールと言えます。
こうして内面が活性化されますと、今度は「外」の世界諸力が「私の生活という外的作品」に刻み込まれます。ここで「生活」と訳したLebenは、人生、生命、営み、生活といった意味があります。ここでは「外」が意識されるので「生活」という訳語を選択しました。また、「作品」はWerkの訳語ですが、第31週には「人間の業績」と訳したMenschenwerkという単語が登場していて、Werkが人間から外界へと、つまりより外向きに移り変わっていることがわかります。

前の第33週で世界の虚無性を見てとった後、この週では「復活」が語られます。33とは、イエスがゴルゴタに掲げられたときの年齢です。その最後の3年間は、そこにキリストが受肉していました。とりあえず私が気づいたのはそうした「33」という数字との関連で、その先までは見えていません。


復活祭後;第35週、1912年12月1日~12月7日

Kann ich das Sein erkennen,
  私は存在を認識できるか、
Daß es sich wiederfindet
  存在が再び立ち直るのを
Im Seelenschaffensdrange?
  魂的創造衝動の中で?
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n,
  私は感じる、私に力が授けられたことを
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
  固有の自己を世界自己に
Als Glied bescheiden einzuleben.
  分枝として慎ましく入り込んで生きる力を。

第35週は比較的すっきりとした構造で、文の骨組みもわかりやすいでしょう。前半3行は「存在を認識できるか?」という疑問文です。その後により細かい状況が描写されます。つまり、「再び」と「魂的創造衝動の中」という条件が付きます。
ただし、「存在」と訳した定冠詞付きの das Sein、いわば存在そのものが何を指すのかはかなり曖昧です。こうしたところでも創造的想像力を育てることができます。そして、それを認識する場が「魂的創造衝動」だと言います。これは場所というよりは行為に関係するニュアンスですし、私の中に創造的行為への熱を作り出している瞬間にだけ現れます。

そして後半は「認識」から「感じる」に雰囲気が変わります。「自身の自己を世界自己に分枝として合流させる」というのは、まさに創造の際の原体験です。ゲーテは原植物という理念が実際に力を持ち、それが個別の植物を創造するプロセスを共体験していました。彼の創造衝動が自然の創造行為と合流していたからです。それを可能にする力を授けられているのを人間はまず、感じるのです。


復活祭後;第36週
冬:1912年12月8日~12月14日

In meines Wesens Tiefen spricht
  私の本質の深みで 語る
Zur Offenbarung drängend
  開示へと迫りつつ
Geheimnisvoll das Weltenwort:
  秘密に満ちて 世界語が:  
Erfülle deiner Arbeit Ziele
  お前の仕事のゴールを
Mit meinem Geisteslichte,
  私の霊光で満たせ、
Zu opfern dich durch mich.
  私を通してお前を犠牲として捧げるために

前半の骨組みは「世界語が語る」です。この世界語とは、森羅万象のそれぞれの設計図とも言うべき法則性とそれを実現する実効的力を内包しています。そして、通常は語りません。必要とされる内容に従って実効するのみです。しかし、ただ一つの場においてそれは語り出します。人間の本質の深みにおいてです。
そして後半の3行は、その世界語が語る内容です。そして人間の意志のあり方を教えてくれます。「今やりたいこと」が問題なのではありません。やろうとしていることの結果が霊的な光で満たされているかが重要なのです。そして光によって植物が育つように、その働きを受けることによって、受けた側に成長の力が湧き上がってくるのです。
しかしそうした意志行為で行われるのは、上っ面だけの自己実現ではありません。それとは正反対とも言える自己犠牲の成就を目指します。この自己犠牲こそが最高の自己実現である可能性はあります。名オーケストラの一員として楽器を奏でている状態がその喩えかもしれません。音楽全体の流れの中に居て、日常的な個を表現する必要などありません。表面的には目立たなくても、演奏家として最高のものを実現できる瞬間です。

復活祭後;第37週、1912年12月15日~12月21日

Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
  世界冬夜に霊光を運ぶために
Erstrebet selig meines Herzens Trieb,
  私の心の伸び芽が至福において努力する
Daß leuchtend Seelenkeime
  魂芽が照らしつつ
In Weltengründen wurzeln,
  世界根底に根付き、
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
  感覚闇の中で神語を
Verklärend alles Sein durchtönt.
  解明しつつすべての存在に通し響く

先週第36週には行為のゴールにあった霊光を冬の夜の状態にある世界に運ぶことが今週の目標になります。その霊光を運ぶのは私の心の伸び芽であり、それが3行目以降の内容を目指します。
まず魂芽が光を担い、それが一方で世界根底、つまりすべての霊的根源に根付いています。無限遠にある無限の力かつ無限の叡智から力を受け取るのです。
そして芽が伸びる先、つまり感覚界の方ではすべての存在に神語を響かせます。それまでは「光」が中心であったものが、ここでは「響き」に変容します。「響き」には光よりも深くに作用し、相手を揺すぶる強さがあります。神語は当然世界根底の方からやって来て、それを感覚界に響かせますし、その仲介をするのは魂芽です。つまり、響きはこの魂芽を伝わってくるはずです。
ここではdurchtönt という語が使われます。durch は「通す、貫く」 で tönt(不定形 tönen)は「鳴らす、響かす」です。「通す」には3通りの意味が考えられます。
 1. 存在を貫くイメージ、
 2. 芽を貫き通るイメージ、
 3. その両者
私は3を推しますが、多くの場合は1と解釈されることが多いので、あえて「通し響く」と2の可能性を残した訳にしました。

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