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西ドイツの友だち

国際文通クラブ

私が中学生の頃、課外活動は2種類ありました。すなわち、授業時間内に組み込まれている「クラブ」と、主に放課後活動する「部活動」です。部活動は原則3年間継続で任意参加。私はテニス部に所属しました。一方、「クラブ」のほうは必修で毎年4月に選択します。継続して同じクラブに参加しても良いし、毎年異なるクラブを選んでもかまいません。それぞれの生徒は自分が参加したいクラブを選び、学年横断的に集まって1コマともに活動するのです。私はある初年度リコーダークラブを選び、残りの2年は国際文通クラブに参加しました。

インターネットが普及した現代、PCさえあれば(理論的には)世界の何処とでも即座に繋がることができます。しかし、私の中学時代にはインターネットなど想像することすらできず、海外旅行は一部の人々に許された贅沢でした。外国は月と同じくらい遠かった時代の話です。外国に住む人との連絡手段は主に手紙でした(もちろん海外通話もできましたが高額だったため、利用する人は極めて限られていたと思います)。

国際文通クラブでは、当時海外の文通相手を斡旋してた団体に依頼し、日本人との文通を希望している外国人を紹介してもらうところから始まります。文通相手が見つかるまでは、クラブ活動時間に先生の指導のもと、皆で自己紹介のしかたを考えたり、自分の趣味や興味あることについてどのように英語で書いたら良いか練習したりしました。既に数学よりも更に苦手だった英語ですが、海外に友だちを持つという誘惑には勝てず、一生懸命英語の文章を考えた記憶があります。

青い目の女の子

さて、何週間かすると各人に海外文通の相手の氏名と住所が紹介されます。次の段階はその相手に手紙を書くことから始まります。当時、海外郵便の送料も現在とは比較にならないほど高かったので、国際郵便に使用するためには少しでもその重量を軽くするため専用の薄い便箋と封筒を使用しました。その光にかざすと向こう側が透けそうな特別な便箋を手に取ると、自分が少し大人になったような気がしたものです。
私に紹介されたのは2つ年下の西ドイツ(当時は冷戦時代でドイツは西と東に分断されていました)の女の子でした。何度も書き直し書き直し、先生に内容を確認してもらってから、一番良く撮れている自分の写真を同封して手紙を投函すると、あとはひたすら待つ時間です。ヨーロッパへ郵便物が配達されるには、航空便指定でも1週間から10日かかると言われた時代。それからしばらく毎日自分の家のポストを日に何度ものぞく日が始まりました。ようやく見慣れぬ封筒に入った手紙が届きました。青い目のお人形のように可愛い女の子の写真が同封された手紙でした。それは私には宝物のように思えました。

私とその西ドイツの女の子との文通はその後複数年にわたり続くことになりました。実際、私はラッキーだったのです。クラブ活動参加者の中には全く返事が届かない生徒もいましたし、クラブ活動が終了する1年を待たずして文通が途絶えてしまうというケースも少なくなかったからです。そういう生徒たちは、まだ文通が続いている生徒の手紙をもとに、返事を書く練習をしたものです。今だったら個人情報が云々とう議論が起こりそうですが、当時はそんな言葉を聞くこともない、良くも悪くも呑気な時代でした。

いつか会おうね

私たちは毎年クリスマスになると、プレゼントとして小さな小包を交換したものです。いまでこそドイツ製のものは、最新のものでも買おうと思えばオンラインショップを通じ即座に購入することができますが、私の子供時代はヨーロッパの物品などまだほとんど日本に入ってきていませんでした。例え入ってきたとしても、高価で購入することなど出来なかったと思います。ですから、彼女から届く小包の中に入っていたものは初めて見るものばかり。チョコレートやら、クッキーやら、小さな木製の人形まで。まさに宝の山でした。私がお小遣いを遣り繰りして慎重に丁寧に選んだものを、彼女も喜んでくれるといいなあと切に願ったものです。今思えば、何をするにも時間がかかり、不便なことが多い時代でした。現代と比較にならないほど「望んでも手に入らないもの」も多かった。しかし、結果としては、その不便や不足が個々人の想像力や工夫で乗り越えることを促したのです。そう考えると、日々成長してゆく子供時代を過ごすには、決して悪くない時代だったと思います。

郵便が届くまで、今考えれば気が遠くなるほど時間がかかったものですが、私たちはお互いせっせと手紙を交換しました。そのうち「いつか会おうね」というのが手紙の末尾に書く定型文になり、私たちの文通は、いずれ大人になり、どこかで会える日まで続くのだ。その頃の私はそう信じて疑いませんでした。

学校がつまらない

文通から4年ほど経ったころでしょうか。次第に彼女の返信が遅れるようになりました。最後の彼女の手紙の文章は未だに覚えています。「学校がつまらない」。彼女は16歳、私は18歳になっていました。そして、その手紙を最後にして、彼女から二度と手紙が届くことはなかったのです。

当時、私は大学受験を控え、4年制大学進学に進学させることに消極的だった両親(当時18歳人口の4年制大学進学率は30%以下、女子の進学率はその半分にも満たなかったと思います。男女雇用機会均等法などまだなく、4年制大学を出た女子にはロクな就職先が見つからないと言われた時代でした)を、進路担当教員や担任教員を巻き込んで説得するのに夢中になっていました。ですから、彼女から手紙が届かなくなっても、彼女に手紙を書き続けるという努力を怠っていたのです。両親との約束どおり大学に無事現役合格(大学進学率が飛躍的に伸びた今、こんな言葉を未だに使うのでしょうか)して我に返り、彼女から全く手紙が届いていないことに改めて気づました。慌てて何通か手紙を送ったのですが、もはや彼女からの返信は二度と届きませんでした。

今も世界のどこかで

その後、大学での勉学、就職、毎日の残業に追われる日々を過ごし、彼女のことを思い出すことは全くなくなっていました。しかし、何十年もそんな慌ただしい生活を送った後、私は東西統一されたドイツに移住することになったのです。すぐに彼女のことを思い出しました。今どうしているのだろう。何度も引っ越すうちに彼女の手紙は紛失してしまいましたが、彼女が「これが私の住んでいる場所」と書いてくれた地図は頭の中に残っています。それはハンブルクから更にエルベ川を北海に向けて下った場所にある街でした。もはやその名前は思い出せませんが、確か右岸だったと思います。今頃でもその辺りで暮らしているのだろうか。ドイツ移住後、私は何度もくりかえし考えます。ドイツに移住することが分かっていたら、簡単にはあきらめず何年にもわたり手紙を書き続けたのに。「いつか会おうね」とあれだけ約束したのに。

時間は不可逆です。どれだけ後悔しても巻き戻してやり直すことはできません。それを痛いほど知っている私は、ですからいつも最後にはこう願うのです。
彼女が、今も世界のどこかで、どうか元気で、そして幸せに暮らしていますように。