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平和を表現する言葉の限界とアートの可能性

いきなりですが最近、アートにすごく最近興味を持つようになりました。というのも、アートと平和の概念がうまくつながれば戦争以上に平和の社会的価値が認識されるのではないかと思っています。社会的価値を見出すためにはまず平和がお金になれば一番手っ取り早いのですが、戦争には未だに武器産業という大きな支えがあり、平和は今の所何のお金になりません。(ちなみに実は平和のイメージが強いスウェーデンも武器輸出国として有名です。)

誰しもが平和を求めているはずのになぜ儲からないのか。それはそもそも「平和」という言葉が曖昧でさらに可視化するのが難しいからではないでしょうか。それに対してアートというのは言葉だけでは表現できないような曖昧なゴールを明確に表現できて、さらに言語を超えて共感を呼べる素晴らしいツールなんだと思います。

去年の年末ドイツのベルリンに訪れた時、まずドイツの暗黒時代の象徴である東西分裂ベルリンの壁に行きました。壁は人間や家族までを分断し、ネガティブな象徴であるはずなのに実際にそこへ訪れると、そこの壁一つづつに描かれた絵によってそのネガティブなパワーをはねのけるような平和への強いポジティブなパワーで満ちていました。

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この負からポジティブな物に変える、 transformation (転換・変換・超越)の力は素晴らしい文章でも、雄弁なスピーチでも持ち得ないパワーだと思いました。

さらにもう一つドイツ旅行で勉強になったのは、ユダヤ人博物館に隠されているアートの表現技法です。まず博物館に行くと実際の展示物が想像以上に少ないことに気がつきます。展示物は写真や手紙、中には収容された家族の食器などが飾られていますが展示フロアーはわざと地面がゆがんでいて嫌な違和感を感じさせます。いわゆる戦争など近現代の負の遺産はカンボジアのキリングフィールドや原爆博物館では、生々しい過去の負の遺産がこれでもかというほどに展示することで観る人に強い印象を残させます。

しかし、このユダヤ人博物館のメインの展示にユダヤの部屋と題された人工の部屋があるのですがそこにはその当時のホンモノが展示されているわけでも、説明書きがあるわけでもありません。そこの意図的であろう重く作られたドアを開くと、高さ何メートルもあるコンクリートの高い壁で囲まれ少しの隙間から太陽に見立てた光が差し込んでいるだけの部屋がありその中は人工的に寒くされています。ただの作られた小さな部屋なのに、そこに入った人間は重く寒く孤独で、コンクリートから差し込む光に希望どころか絶望を感じさせる、なんとも言えない悲しい気持ちにさせます。

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そこには何も書かれていませんがどの展示物よりも強いメッセージ性があったように思えました。さらに博物館の外に出るとコンクリートの4メートルほど?の塔が何個もたっており、そこを歩くと無機質な迷路に迷い込んだ気持ちになりました。まさに収容所に入れられた人々の気持ちを表現しているのでしょうか。なぜカンボジアや日本の原爆ドームよりも”ホンモノ”が少ないのに強いメッセージ性を感じたのか、それは人間の想像力と言葉に関係していると思います。

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言葉というのは本来区切ることができない連続性の現象・物体に人工的に壁を作り言葉のラベルを貼っているだけだと思うのです。平和がその象徴です。

どの文化どの言語を使っても表すのが非常に難しい。個人個人でその意味は違うと片付けてしまえば済みそうで、実は平和には普遍的な特徴がある。紛争がない状態・暴力がない状態・差別がない状態・経済格差が大きくない状態、挙げれば無数にあるのに、平和の実態を知ることができない。

これは言葉の限界であり、現代の歴史教育の限界なのかもしれません。日本は先の大戦で多くの被害を受け戦争に対する拒絶感・嫌悪感を抱きました。その一方で日本人は広島・長崎では原子力の怖さを誰よりも知っているはずなのに、原子力発電所を再び作り大きな事故を起こし、核兵器禁止条約には日本は賛成票を入れられない。1億人も住んでいる国で何も過去から学んでいないのは、過去ときちんと向き合わず想像力として生かしてこなかったから。

辛い震災の経験をしても未だ臭い物に蓋をするように、普通を装うとする。どれだけ戦争体験・被爆体験をされた貴重な話を聞いたり読んだり、またはホンモノを見たとしても現実世界に住む私たちの生活に落とし込むのは難しい。

きっとどんな人間でも平和なひと時がどんなことよりも大事なのに、ある瞬間にそのことを忘れてしまう。それらはきっと、言葉だけでは人間は本当に理解できていなかったからなのではないのか、そんな風にアート(表現)を見て思った旅行でした。




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