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開発学を学びだしてぶち当たった1つ目のジレンマ

この夏からスウェーデンでPeace and Development studyを1年間学ぶgrittoです。授業の内容については前の記事に書いているので興味のある方は見てみてください。

今回はグループ課題について。月に二回ほど普段の授業とは別に、グループ課題が出され論文を読み分析をするもになるのですがその内容がとても面白く、開発と言う言葉の意味を考えるきっかけになりました。

初めてのグループ課題では4人の論文が課題として出され、初めの2人は共通して発展途上国は経済が発展できないのは文化など国内に問題があると考えているので、必然的に西洋中心主義つまり西洋(先進国)スタイルの民主主義・自由貿易・資本主義的な政治経済が一番優れていると言う考えが前提にあることが考えられます。その一方で他の2人は先進国が作った経済システムで、従属理論つまり利益循環がいいのは先進国ばかりで発展途上国は出来レースの中でどれだけ頑張っても先進国にはなれないというのが主なポイントでした。

一見初めの2人は偏った見方をしているように見えますが、よくよく読んでいくと納得する部分もありました。例えば途上国における賄賂で、どれだけ国際機関が開発投資を行ってもお金がうまくまわっていないことはよくあることです。途上国に限られた話ではありませんが、行政的機関がきちんと成り立っていない状況では地位の高い人が不正を働き美味しい思いができるのは容易に想像ができます。賄賂や男女平等も「国内の文化」として捉え、それぞれの問題に対処すべきだと言うわけです。文化面を変えていくべきだというとやはり倫理的に、または西洋型がいかに優れていて途上国がどれほど非西洋的か露呈しているように見えるために、ずっと避けてきた話題だと最後に締めくくられていました。

高校生の頃にカンボジアで日本の病院を経営しているところにフィールドワークに行った経験があるんですが、カンボジア人の医療人材を育てるために一番苦労したことは「文化」だと日本人の方がおっしゃっていたのを思い出しました。緊急の患者さんがいるのにきっちりお昼休みをとったりとにかくまったりしているカンボジア人と日本人は感覚が全く違うわけです。もちろんこの場合は日本的価値のもと指導されているわけですが、ここにも気づかないうちに自分のものさしを使っているんだと気づき、それがないと目の前の問題を対処するのにうまくいかないのも事実だと思いました。文化だからといって変えてはいけないのか、変えるといってもどこまで許されるのか。逆に文化を言い訳にしてもいいのか。そんなことにディスカッションは発展していきました。

その一方で後者の途上国側の主張ももちろん一理あるわけです。ここから発展していくというときに、グローバル化とともに外資企業が流入してきてスーパーで売ってる物はほとんど海外産で、国内産業が成長する市場の隙間さえない途上国をよく見ます。こんな強者(先進国,西洋)が作った中でどう頑張ったって成長できない!  支援するくらいならフェアトレードをして搾取をやめろ! というのがおもな主張です。この世界的な搾取の構造は誰も否定することはできないし、世界の紛争や対立の根本的原因もしくは潜在的な原因なのは誰が見てもわかるのです。

開発という意味には人間開発、都市開発、経済開発たくさんの意味を含みますがいずれも開発する方向が決まっていてそこに向けて開発されていくわけです。私が開発が何となく好きじゃなかった理由もここにあると思います。しかし実際、たとえそれが西洋型のものさしであろうと男女不平等が文化の名の下に許されることはあってはならない。仮説であったとしても正解を求めないといけないのが開発なんだと気づきました。国内の開発が進まないと人間の権利、教育や公衆衛生や社会保証が行き渡らないのは事実で、開発がないと弱い立場の人の状況が良くなることは絶対にないのです。こんな簡単なことを見落して、大きな搾取構造ばかり訴えているのも違うんじゃないか。もしこの4人の主張ともすべてが正解だとするなら、このジレンマを解決するヒントが平和学と開発学なのかと課題を通じてしっくり来ました。私のざっくりとしたイメージ、平和学はどちらかというともっと学術的な部分が強調されがちで、そこと開発学がうまくつながれば短的な開発学の視点がもっとワイドに大きな構造や長期的アプローチに発展できるのではないかと思いました。




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