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大切な友だちに愛を込めて

「男女」の間に友情は成立するのか、という題材だけで月9のドラマを作ることが可能だった90年代。上戸彩が、「グレーがあってもいいと思う」と啖呵を切ってからおよそ25年が過ぎようとしている。

今や、LやらGやらBやらTやらQやらで、「男女間で」という区切りがもはや鼻白むものとなってしまった。どんな立場であれどんな状況であれ、人間の心の動きというものは否応なく作動してしまう。そしてそれはもはやコンセンサスとなっている。

さらに言えば、阿部サダが「多様性」と叫んだだけで賛否の巻き起こる多様性の時代でもある。

何が正しいとか間違っているだなんて、誰にも言えない、わからない。それが令和なのだ、という言い訳から久々のnoteを始めようと思う。

今日は、『友だち』というタイトルのショートドラマを作ったので、友だちについて書いてみたい。

友情とか愛情とかといったものは言わずもがなコミュニケーションの一であり、目の前の相手とどんなコミュニケーションを取るのかを決めることで後から付いてくる名前である。

コミュニケーションとは、今日着ていく服を選ぶのと同じで、仕事の打ち合わせや待ち合わせのデート、サークルでの飲み会や飛行機でたまたま隣同士になったときなど、そのシチュエーションで、コロコロコロコロ他所行きの自分は変わっていく。

それはもちろん当然のことで、仕事の打ち合わせで、「ごめん、待った?」などと言えば商談は打ち切りだし、待ち合わせのデートで「大変お世話になっております」と名刺を渡せば2度目のデートは恐らくないはずだ。

では、他所行きの自分はどこで脱げばいいのだろうか。家に帰ってビールの缶を開けたときだろうか。

妻や娘に愛を伝えるときの自分は他所行きではないのか。夫に対してはどうか。あるいは自分自身に対してすら、ありのままの状態を正しくキープできていると言えるのだろうか。つまりは、愛情とは往々にして他所行きなのだ。そして、それを持続することが愛情という名の幸せでもある。

一方、友情にも幸せがある。

他所行きのスーツではない、ユニクロのパーカーやダル着に身を包んだ、いやむしろ何も着ないでもいいような、ありのままの自分でいられる場所、そういう関係性がどこかにできる状態のことを、人は友情と呼ぶのだと思う。

『友だち』というショートドラマでは、主人公の莉華乃は会ったばかりのゆきに対して、「私がやっつけてあげる!」と意気込む。それを受けてゆきはその想いの強さに惹かれたがゆえ、彼女を解放する。ほんの僅かな瞬間だったけれど、この2人に間には確かに「友情」があったと、そういうことを言いたくて筆を取りました。たった一瞬の出逢いの中で生まれて消えたほんの些細な感情にも、わたしは友情という名前を付けて作品に『友だち』というタイトルを付けました。友情っていいよね、なんて思いながら。

多様性の令和に、愛情とか友情とか言ってる時点でナンセンスなんだよ。確かにそうだ。だけど、莉華乃とゆきは高校生だし、生きてる者と死んでる者でもある。愛情ってのはちょっと距離とか環境とか立場とか法律とか年齢とか色々なもので制約があって、その中で生まれるアレコレが愛だとも言える。昔、野島伸司が世紀末の詩で言ってたように愛はほんとに壊れやすくふわふわとした形をしている。

でも友情は、多分距離とか環境とか立場とか法律とか年齢とか色々なもので制約を受けないものでもあると思う。高校生を主役にして、生者と死者という立場を利用したのはそういう意図もある。

作品解説なんて野暮なことはこれで最初で最後にしますが、まぁ、わかりづらいというお声も多数いただきましたもので。すみません。

皆さんには大切な友だちがいますか? そしてそれはどんな形をしていますか? 誰にも咎められることのない、何の制約を受けることもない、多様性の時代の感情の形を、コメント欄で教えてくれたらとても嬉しいです。

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