第3回:中川八洋を愛読する

 少し間が空いてしまったが、前回はネトウヨっぽかった中学生から高校生にかけての私が、右派の言論誌『正論』を購読するも、次第に物足りなくなっていった経緯について書いた。そしてそんな私が次の一歩を踏み出していくきっかけとなったのが、中川八洋という人物だった。

 中川八洋と聞いてもピンとこない人も多いかもしれない。彼についてWikipediaレベルの紹介をまずしておこう。中川八洋は、1945年生まれの政治学者。筑波大学名誉教授。専門は、国際政治学、英米系の政治哲学など。また近年は、皇室に関する著作も多い。

 こうやって紹介すると、普通の学者じゃないかとおもわれるかもしれないが、彼の文章を読めばなんだか様子がおかしいことに気づくだろう。詳しいことはまた後で紹介するが、とにかくある種の過剰さを抱えた人物であることは間違いないと言えるだろう。とにかく高1の頃の私は、中川八洋から多大な影響を受けた。今でもその影響は間接的に及んでいる。では、彼が私にもたらしたものとは結局のところ何だったのだろうか。

 それは一言でいえば、「古典を読め」ということだった。彼の著作は大学生になったくらいのタイミングで全て手放してしまった(今おもえばもったいないことをした)ので間違っている可能性もあるが、『保守主義の哲学』という著作には確か、保守主義者が読むべき本と日本に害悪をもたらすろくでもない本のリストが掲載されていた。『正論』を読むだけで満足しているような右派の人々とは一味違うポジションの確保を望んでいた当時の私は、中川の教養主義にすっかり魅了され、このリストを自らの指針として非常に大切にしていた。

 実際、中川の影響を受けて、エドマンド・バークやカール・ポパー、フリードリヒ・ハイエク、マイケル・オークショット、ウォルター・バジョットらの著作を読んだ(当時どこまでそれらを理解することができていたのかについてはかなり心許ないが)。その一方で、「敵が考えていることもわかっておかなくては」という動機から、ルソーの『社会契約論』やマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』などにも手を出した。

 こうした過程で学んだことは二つあった。第一に、「何かについてものを考える時、そのことについてさんざん考えてきた先人たちが絶対にいるから、まずは彼らの議論に目を通すべきだ」という感覚が身についたこと。第二に、「自分と立場の違う人の議論にも触れることで、特定のテーマについてより考察を深めることができる」ということを体験を通じて理解したこと。これら二つの学びは、私が大学院に進学して少しだけ研究のようなことをする一つのきっかけになっているようにおもう。

 話が先走るが、私が大学院で研究していたのは、ジル・ドゥルーズという哲学者の哲学についてであった。実は、このドゥルーズという人の名前を初めて知ったのは、他ならぬ中川の著作を通じてである。ただし、批判の対象としてであったので、当初私がドゥルーズに対して抱いていた印象は端的に言って最悪であった。今回この記事を書くにあたって中川の『福田和也と《魔の思想》――日本呪詛のテロル文藝』という本を買い戻したので、その第六章におけるドゥルーズ(およびその紹介者)への批判をいくつか引用しておこう。すでに言及した中川の過剰さを、ある程度は感じ取ることができるはずだ。

 ドゥルーズ/ガタリの作品の内容は意味が全く不明であるから、もともとその内容を説明することなど不可能である。しかし、市倉宏祐は「ドゥルーズ/ガタリの作品は意味も用語も不明で理解できませんでした」とは白状しなかった。一行たりともそう指摘したところがない。彼には学者としての良心がない。というより、教養が貧困で学者としての知的能力が極度に低いから、ドゥルーズの作品は意味が全く不明であることも、用語が皆目意味をなしていないことも、認識できないのである。(『福田和也と《魔の思想》』、221頁)
 「倒錯症」「パラノイア」とは、人間に関する精神医学上の疾患名である。それらの医学用語を「土地」とか「生産」の経済学の問題の考察に用いることはできない。この程度の疑問を呈しない市倉とは、学者としての素養が全く欠如しているからである。だから市倉は、「分子」「モル」という化学の用語をもって社会学の「集団」などを記述する重度の精神分裂症患者ドゥルーズの狂気と奇想を、そのまま転記するばかりである。(同上、222-223頁)
 このポスト・モダンの表現方法は、資本主義打倒を従来のマルクス主義を改良して、そのジャンルで経済学的にいかに論じても、もはやマルクス主義やソ連の神話が崩壊した一九六八年以降にあって、誰も読んでくれないことの自覚を出発点としている。そこで、極度に奇を衒い、仏教の大経文の梵語よりもはるかに読解不可能な意味不明な文章にすれば、毛ばりにハゼが喰らいつくごとくに本能的に読みたがる(翻訳しかできない)三流学者たちの性癖を活用する戦術に転換したのである。この毛ばりに喰らいついたのは、市倉だけでなく、今村仁司や浅田彰も同類である。(同上、225頁)

 中川の過剰さをより伝えたいという気持ちが強すぎて、ついつい多めに引用してしまった。これくらい読めば大体の感じは伝わるだろう。今改めて読んでみると、批判と呼ぶには雑すぎるし、ソーカル・ブリクモンの『「知」の欺瞞』を参照しながらドゥルーズの鬼の首を取ったつもりになっているあたりも何ともほほえましい。しかし当時の私は、この罵倒芸と教養主義のコンビネーションにすっかりやられてしまっていた。

 このように、中川による左派に対する批判はかなり苛烈なものであったが、そもそも彼の議論は右派の圏内でおいてもかなり風変わりなものだった。特に当時の私にとって印象深かったのは、彼の徹底した親米保守主義者っぷりだった。中川の親米主義は徹底しており、右派が擁護することが多い太平洋戦争についても、アメリカと戦ったという点については批判的である。例えば満州経営にかんして、アメリカと協力していれば日本の技術力では見つけることのできなかった油田を発見することができて、より繁栄させることができていたはずだ、というような主張をしていた記憶がある。

 とはいえ、中川は当然愛国主義者である。日本が悪い、という話にはならない。ではなぜ日本は、中川にとって絶対的に善であるアメリカと戦火を交えることになってしまったのか、という疑問が生じるが、これは全てソ連の陰謀ということで処理される。日本が太平洋戦争へと突き進んだのは、日本やアメリカの中枢に浸透していたソ連のスパイたちによる策謀のせいであると考えることで、日本がアメリカと戦ったことを批判しつつも、日本を免責することが可能になるのである。

 中川を愛読していた頃の私は、当然上記の議論を受け入れた。しかし、こうした議論から、中川が主張するようなソ連による影響力を過大に見積もる陰謀論をそぎ落とすとどうなるだろうか。単に日本を焼け野原にさせたアメリカとの無謀な戦いの責任はやはり日本にある、という常識的な左派・リベラルの歴史観と何ら変わりがなくなる。実際高校から大学にかけての私の歴史観は、そのように推移していく。そればかりか、歴史問題やそれをきっかけにして生まれた政治への関心も薄れていく。そしてそれに伴い、哲学への関心が増大していく。

 こうした哲学との出会いについては次々回に書くことにしよう。その前に次回では、中川の影響を受けて高校生の時に特に熱心に読んでいたフリードリヒ・ハイエクやその周辺について振り返ることにする。

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