演劇を研究する、とは?
僕(小西優司)は演劇の研究者であり、探求者であり、求道者である。それは、芸術家というのとは少し違う。それこそ若い頃は「有名になりたい」とか「俳優としてお金持ちになりたい」とか1日くらいは考えてみた、かもしれない。どっちにしても、5〜6時間考えてやめた。そんなものは興味がない。もし、お金持ちや有名人になりたいのなら、ソムリエになっただろうし、バーテンダーになっただろう。でも、結局のところ、そうでない部分で演劇を志し、その道を歩み、芸事を生業としたのだ。その道は半ばであり、何一つ手に入れてないし、何も成してない。それでも、アクト青山ドラマティックスクールに入所し、演劇集団アクト青山を立ち上げ、解散し、僕はスカレッティーナ演劇研究所を作った。
演劇を研究したいのだ。
演劇について演技について研究し、その成果を上げ、メソッドを確立し、才能の如何に関わらず、舞台上を彩る俳優を育てたい。才能の如何に関わらず?そんなのは嘘だ。芸術家に才能は必要不可欠だ。そして才能と同じだけ必要なものこそ「教育」だ。教育とは正しいことを教わることじゃない。間違っている事を叩き込まれることでもない。自分の中にはない発見と感性を他者から譲り受けることだ。それが教育だ。演劇を研究し、教育を施し、美しく醜く人間的な俳優を生み出すことが、僕の仕事だ。僕はそう信じている。作品?作品は俳優と演出家と作家が生み出す。作品を生み出すには、俳優が要る。作品から先に生み出す事は不可能だ。鶏と卵とは違うのだ。だから、なんとしても俳優が欲しい。演出家が欲しい、作家が欲しい、演劇人が欲しい。研究し、教育し、生み出す事、それこそが僕の夢であり仕事だと信じる。
最初のシーズン2019-21が終わった。
考え方は二つにしている。
先生なら技術を、師匠なら精神を教える。
どちらかだと思っている。
嫌いな事は幾つかある。
遅刻が一つ。
先輩らしくない先輩。
後輩らしい後輩。
この三つは嫌いだ。
結局、今シーズンは先生でしかなかった。
先生にしかなれなかった。
桃木や、高村や、華奈は弟子だと思っているから、今シーズンは先生だった。
その結果が『牛山ホテル』だと思う。
演劇の40%くらいは技術で50%はメンタルで、10%は才能だと常々感じている。
僕が先生だとしたら、彼らは生徒なのだから、もうこの道で会う事は稀有だろうと思う。先生と生徒とはそういうものだと僕は決めている。滅多に客演というものに出演しない僕は彼らと舞台で会う事はなかなかないだろう。寂しいかと聞かれたら、そうでもないと思う。弟子を見出せない事は寂しいけれど、そうでなければ人生は一期一会であり、人間万事塞翁が馬と言ったところだ。どんな事も、来て去って、喜んで悲しんで終わり。
新しいシーズンに役者さんが思ったよりもいて下さる。うちは、朗読で芸術性を、芝居で技術と理論を教えているので、また一からやっていくことになるのだと思うとワクワクする。弟子が欲しいけれど「なって下さい」と頼むようなものではないし「して下さい」と言われて判断するようなものではない。なんとなく、呼吸の中で互いに師弟であると感じる事こそ重要だと思う。
来年は華奈と活動をしていく。弟子だと思っているから(勝手にだろうか)楽しみだなと思う。
岸田國士、チェーホフ、イプセン。
森本薫、山本有三、田中千禾夫。
みんな大好きだ。近代古典こそ僕には演劇だ。
また一からやり直します。
また一からスタートです。
通ってくださる役者さん。
ご連絡お待ちしております。
作品は大事です
作品に出来るかも大事です
でも
役者さんが素晴らしい事がなにより大事
演劇を研究するというのは
役者を、人を研究する事だと僕は思います
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