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おてんとさまが見ている?

招き猫は実在するのかもしれない。
小判を抱えた誰もが知る置物。あの招き猫は福を招くわけで、我が家で野良猫を引き取ろうと決めた時から、家に来て面倒を見るまで新しい仕事の相談が相次いでいる。これはこの子達が運んだ福かもしれない。と打ち合わせでクライアントと話していると「いや、そこは今までの努力でしょう」と笑われた。

自分の努力か、猫たちの運んでくれた福かは知らないが、忙しくも楽しいプロジェクトの打ち合わせをハシゴしている。うとうとと移動中に眠りに落ちるのは、子猫たちを見守るために一緒に寝るので朝方の運動会で寝不足なだけ。こんなにパツパツなのに頑なに残業はしない。

子供たちがもっと小さい頃、お行儀が悪いと「神さまに見られてるぞ」とかクリスマスが近づくと「サンタさんが見てるのになぁ」とビビらせていた。
「どこから見てるの?」というピュアな質問にあそこらへんと空を指す。そう善行も悪行も僕らは誰かに見られているという世界観を持っている。これ不思議だと思わない?

実在を確証できないものに見られているという感覚。
良いことをすると連鎖して、自分に良いことが帰ってくる良いことの連鎖とかあると信じている。でも、冷静に考えるとそれを誰も証明できないわけです。
でも、なんかちょっと信じたい。

で、思ったの。これって良いことボールみたいなものを必要なタイミングでブンと投げているだけで、実はそれただのボールなの。でも、確かに自分は正しいことをした!という気持ちが自分の中に残る。それで実は満足なわけ。

でも、先ほど投げたボールを誰かがキャッチする。
年配の方に席を譲るとか、電車で泣きわめく誰かの赤ちゃんを笑顔で見守るとか。大小様々なボールの一方的なキャッチボールが始まって、受け取った人ってのは嬉しいわけじゃないですか。ペイフォワードの世界なんだけど、投げた本人って投げた時点で満足している。でももらった人はそのボールを預かって自分なりの良いボールをどこか別のタイミングで投げている。実はいろんなところで交歓が起きてる。

ほんで「六次の隔たり」って有名なのあるよね。僕が今会いたいなぁって人に六人経由すれば確実に会えるっていうやつ。忌野清志郎には会えないけどオバマには繋がる可能性がある。この良いことのボールって、目的のない六次の隔たりなのかもしれないと思った。良いことをすると良いことが帰ってくるって、たまにあるでしょ。それって実は誰かがどこかで投げたボールがあなたに届いたってことなんじゃないかな。どうかな。

それを僕らはうっすら理解していて、目に見えない実在しないお天道様らへんにいる存在に「見られている」という世界観をもってるのかもしれない。知らんけど。

今、招き猫のおかげか色々相談もらっている状況はありがたいことで努力云々ではなく、人に恵まれたのだなと思う。しっかりと全てに向き合っていこうと思う。そして、自分が楽しく、周りも楽しくいられれば、それはもしかすると幸せのボールをぶん投げ続ける集団なのかもしれないと想像したら、まずは自分が楽しく幸せであろうと思う。

3匹の子猫と寝ます。おやすみなさい。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。