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人はもっと曖昧な現象だったのかもしれない

一人ボーッと布団で音楽を聴いている。強すぎた雨音を遮るように穏やかな音によりかかり、考え事をしている。世界とか、死とか、森とか、海とか、言葉とか、心とか。こう見えて全部仕事のことなのも驚くけれど、そんな言葉と思考の海を漂うお盆休み。

僕が生まれた北海道はただっぴろくて、コンビニまでは歩いて30分かかり、夜にはしまっている。本屋はなく、祖父の本棚からあさって獲物を選ぶか、難しすぎて断念して、ゲームにもあきて、ただ降り積る雪と時折通るバスで揺れる感覚の中、何かを考えることで10代の無限に広がる時間を過ごしていた。

38歳のおじさんとなった今も髭は生えたし、若干太った変化くらいで同じように思考の海を漂い続けている。20数年前も昨日も今日も。多分明後日も。

雨音が少し弱まった。今ぐらいがちょうど良い。音楽を止めて、どんどんと暗くなる寝室で風景に溶けていく。どろりと雪だるまが消えかかるように薄暗い夕暮れの雨音に溶けていく。思考だけは残って布団の上を浮遊している。ぷかぷかとぼんやりと。

思考が何か言葉という実態を持つまで。
誰かが話しかけてくる、その時まで。
ずっと浮遊している。気がつけば寝ている。仕事と暮らし、起きてる自分と寝ている自分、考えている自分と考えてない自分。それらの全てが曖昧だ。僕が僕であるずっと前に、もっと生き物らしい生き物だったとき。たぶん、この状態だったのかもしれない。これが正しい状態なのかもしれないなと思う。

高校生のころ、近所のスキー場で滑るのにも飽きて、スノーボードを突き刺して裏山で寝転んでいた。寝そべると人一人がちょうど消えてしまうほどの積雪量で空からさんさんと雪が舞い落ちて、まぶたに落ち、溶けて消えていった。耳も雪の積層に埋もれていき、雪の断層から粉雪が着地する音が聞こえてくる。誰かの足音や木々が揺れる音。景色に溶けている自分がいる。

気付けば眠っており、顔を舐められる感触で目を覚ますと狐が目の前にいた。あぶない、食べられるところだったのかもしれない。野生の狐は驚くことなく犬ほどの距離で僕を見ていた。あ、今そっち側にいるんだな。そう思った。人じゃない自然の方に自分はいるんだと。

いつか消えてなくなりそうで不安になる。
誰かの言葉も入ってこず、頭の中で泳いでいる。そのまま雪が消えて無くなるようにふわりとじわりと溶け込んで消えてしまうのかもしれない。ここに止まるべく字を書いて、言葉に変えて、仕事して、飯を食って、笑っているのかもしれない。

人はもっと曖昧な現象だったのかもしれない。
そんなことを思ったお盆休みの終わり。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。