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「他者と比較しないで生きる」なんて無理

他者と比較しないで生きる。
幸せな人生を過ごすための最良の手段であり、もっとも人間的に難しい行為でもある。

僕自身、誰かと自分の人生を比較しないで生きているか?と言われると100%出来てると言い切れない。物事の価値は多くが差分でしか判断することができない。
Aというお菓子、Bというお菓子。食べ比べてAの方が好きだった。あなたはA>Bの位置付けを行い価値の差分を把握する。

しかし、これは「あなたの中の価値」であることを忘れてはいけない。かつて心理学の実験で長さの違う線を3本並べ、どれが一番長いか?というものがあった。
数名の被験者が集められたが本当の実験対象者は1人のみ。他は演者さん。被験者以外みんな意図的に一番「短い線」を選択し、残された被験者は何を選択するか?という意地悪い実験だ。

順にもっとも短いはずの線を選択する演者。
不思議がる被験者。彼の番にきておどおどしながらも皆と同じもっとも短い線をもっとも長い線だと言い切った。

極論だが僕らはこのような世界に生きており、紛れもない事実として僕らも被験者と同じ人間だ。大衆のベクトルに様々な価値基準が無意識に反映されている。

とある海外のYoutuberが渋谷の人混みで肩をぶつける悪戯をしようとした。しかし、人混みに慣れた東京の人たちはそれを目もくれずかわす。Youtuberは「ニンジャ…」みたいなリアクションだったらしい。

日本の人口密度は圧倒的に高い。
パーソナルエリアの侵入も各国に比べて異常に多い。
そんな国で毎日過ごしていると他者との距離やリスクヘッジのスキルが上がる。空気を読むのも日本人特有だ。この狭いコミュニティでは必然的なスキルだったのかもしれない。僕たち日本人は無意識に他者を意識することで暮らして行かざるを得ない。

中国人観光客が増えて、驚く程道を譲らないことに驚く人が多い。マナーが悪いとかではなく彼らの普通なのだと思う。日本とは違う環境下で育つと価値観も全て異なる。同じアジア人でも国ごとに多種多様だ。それを疎ましく見るか、差異をつまみにいっぱい飲むのかでも幸福度は変わるかもしれない。ちなみに僕は後者だ。

いつ頃から他者との比較をあまりしなくなったのかは思い出せない。全ては事象です。そんな捉え方を当たり前にしている。上手くいくことも上手くいかないことも、パペットみたいな自分の後ろにもっと俯瞰した自分がいるイメージ。

誰かを羨ましいとパペットが思っていると、俯瞰した僕はそれをフーンと眺める。誰かができてて僕に出来てないことはこれかーと後ろで考えている。

うん、これは無理!と判断するのも自分だし、
差分で学んだことを身につければもっと良く慣れそうだしGOというのも自分。事象から全てを判断し選択する。比較は最高の教科書だったりする。でも比較には種類がある。

今の自分を採点するための比較は人生を暗くする。
自分なんかよりすごい奴死ぬほどいる世界で採点し続ける意味を考えてみよう。辛いだけ!

羨ましいな!と思える感情をポジティブに捉える比較ってのがある。僕はこっちをお勧めする。羨ましいセンサーに反応したってことは本能が望んでる何かがあるってこと。金属探知機みたいにね。
そういう時は先述した俯瞰した自分大魔王を召喚しよう。冷静に誰かにあって自分にないものを把握する。その溝を埋める方法を考える。努力する。以上。

ちなみに自分とはかけ離れすぎた人に羨ましいと思ったことなくないですか?スーパーアスリートとか、ポップスターとかなんでもいいんだけど自分とは関連ないカテゴリの人を比較することはないんです。実は心の底で「もしかしたら届くかも」と思えるもののみに比較センサーが働くんです。無意識賢い。

もし誰かと比較して生きるのが辛いとか
仕事しんどいとかいたら、それを遊びに変えてしまおう。比較ではなく差分ゲームとでも呼ぼう。大抵の苦しいことは視点を変えると遊びに変わる。遊びは義務じゃないから気付いたら良い方向に進むと思うよ。

ちなみに人と比較しないで生きるって方法は存在しないと思います。人間本来の本能に比較する機能があるから生存できたし進化してこれた。

比較しない人生を選ぶのはVS人類の歴史みたいな規模になるからか知恵がないような気がしてる。
レストランであなたが何かを選ぶ時、すでに自覚は始まっている。合コンでも、移動の電車でも、書店でも、スーパーでも、旅でもなんでも比較が発生する。

人間根本の機能と戦うより、それを遊び変える方がニュータイプっぽくて楽しくない?
今日はそんな比較で遊べ日記でした。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。