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圧倒的な美しさの中に小さく生きてる

異常なほど晴れ渡った日本海を眺めて日影を探す。
このまま、ここに突っ立っていると命が削られていく。海へと出た撮影クルーを漁港から見送り、朝5時の海辺を歩く。もちろん日陰なんてなかった。

たっと数分前とも違った表情をする自然を眺めて、圧倒的な美しさの中に小さく生きてるのだなと思う。足元に転がる貝殻も到底僕には放つことのできない美しい輝きを示していた。

誰もいない早朝の浜辺でタバコに火をつけて海を眺める。
そりゃこんな惑星見つけたら、宇宙人も驚きだわ。
この星に生まれただけでラッキーなのかもしれない。

朝の暑くも気持ちの良い光で体の目が覚めてしまった。
撮影クルーが港へ戻るまで旅館の清掃のおばちゃんとお茶をして過ごす。なんだかデートみたいやわと喜ばれる。違うな、これは朝方のホストクラブだ。気付けばおばあに囲まれる。違うこれでは新手のキャバクラじゃないかと笑い合う。

祖父祖母と過ごす時間が僕は長かった。永遠と話し続けれる。ボケて何度同じこと言おうが苦ではない。それくらい大事なことなのだと思う。それを笑うこともない。突っ込むことも。たぶん、その伝えたいことは今しかないのかもしれないと思っている。その数分後には2度と伝えることを忘れることだってある。なんとなく、その瞬間にしかない刹那的な言葉と思って僕は好んで何度でも聞いてしまう。愛おしいとも思っている。

そんな人間なのもので、年上の方々にやたらモテる。同世代にはモテた試しがない。スナックのママだって、居酒屋のお父さんだって、バス停待ってる間に隣座ったおばあちゃんだって、なんだか気付けば息子か孫くらいかの距離で仲良くなっている。そして、その時間が僕はとっても大好きだ。

もう自分なんかより倍くらい生きている人たちの話は、その人生こそ一冊の本に勝る。えーそれからどうなったん?って食い気味に聞いてしまう。どの人生もかなり美しい。初恋の頃に聞いてた曲とか、忘れられない風景とか、恐ろしい体験とか、たまたま出会った知らぬ人たちの人生には、映画のように美しいシーンが流れている。

僕らが瀬戸内国際芸術祭で小豆島に招待作家として滞在していたとき、たくさんの年上の友達ができた。僕らは誰にでもどんどん話しかけて、小さな町かもしれないけど僅かにあった知らなかった人たちの偏見を超えて会話をし続けていた。みな、良い人だった。言葉を交わす機会がないからわからない。それだけで繋がっていない関係性があったのだと感じた。

町の外れに住んでいる築地さんという方と仲良くなった。もう任侠映画にでてくる強面だ。何かのきっかけかはわからない。あーそうだ。僕の好きなタバコだ。早朝決まってみんなが集まってタバコを吸うベンチが海辺にあった。毎朝そこにいって至福の1本を無言で吸っていた。その時であったのが築地さんだ。僕と2人で。タバコなんでこんなうまいのかなーって話しかけた。ここで吸うタバコが一番うまい気がするって。築地さんの強面の顔が少しだけ笑顔になった。そこから仲良くなって、酒を飲んだり、船に乗ったり。

ある時、過去の話になった。決して本当のことは教えてくれなかったけど、人様と同じ場所で働ける人間じゃないとだけ言葉をこぼしていた。酒とタバコと銭湯だけは、関係ないから、じゃあ俺らいろいろ話せますねっていうと出会って一番笑っていた。良い笑顔だった。

俺は葬儀屋をやってるって、その後自分のことを話してくれた。その前の過去のことは僕と築地さんだけの秘密だ。毎日、手を合わせて送り出してると、その時おそろしく美しい光が築地さんの背中の海から差し込んでいた。あぁ、この人の人生だ。この人が生きてきた今がここにあるのだと痛く感動したのを覚えている。今度いいところに連れてってやるよって朝のタバコを終えてバイバイした。なんだろうスナックとかお姉ちゃんの店でも連れてってくれるのかなと思った。結果、想像を全然超えた場所に僕らは連れて行かれた。

集合場所は港。築地丸と書かれた船に乗り、「俺が死んだら、この船、やるよ」って笑ってた。この頃から、普通に笑顔が当たり前になってきた。町の人はあんな笑う人じゃなかって後々聞いた。築地さんは小島に連れて行ってくれた。子供の頃、よくきていた島。泳いでも来れるんだぞって町の方指さされたけど、あかんって死ぬってって距離だった。笑

その小島の足元を見て驚いた。ウニや貝の骨が浜辺一帯を覆っている。死ぬと海流の流れここに流れ着くらしい。そこで拾ったウニの骨はいまだに我が家に飾ってある。死の大地なのに珊瑚礁のように美しい浜だった。流木に腰掛けて築地さんとタバコに火を付ける。タバコがうまい。煙がゆるゆると空に流れていく。なんだか、葬儀場みたい。そんなことを思った矢先

「もうそんな長くないんだわ、俺」

って遠くをみて、煙を吹き出していた。

末期癌。もう転移しまくりで最初から治そうとも思わないけど、だから次会う時はもういないかもなーと笑っていた。

だから、ここに連れてきたのか。もうお別れじゃん。なんだよせっかく仲良くなったのに。でも、まぁ死んだ後こんなところに流れ着くなら、悪くないかも知んないね。うんうん。いやでも、最後かもしれないけど、話しかけてよかった。出会えてよかった。

そんなこと話して、腰を上げた。僕らが島を離れる時も恥ずかしそうに見送りにきてくれた。カッコつけて車から遠くで手を降ってたけど見えなくなるまで手を振った。それが本当のバイバイになったのは半年後くらいたったころ。島の友達から電話ですぐに教えてもらった。

僕は悲しくなるといつも1人で今は亡き次郎さんの屋台跡地に地べたに座って1人で酒を飲む。いや1人じゃないのかな。その日も電話を受けて、やっぱり悲しくてコンビニで酒を買って、地べたで酒を飲んだ。チャプチャプ今も浮かんでる築地丸が瀬戸内海を揺れている風景が見えた。

墓参りに小豆島へ行けたのは1年後くらい。線香とかどうあげんだ?わかんないから全部つけちゃえって墓石の前でキャッキャしてすごい量の煙が出て笑って、タバコに火をつけて、そっと置いて帰った。さよならの先があるのだなぁ。さよならでは終わらないんだとかそんなことを思った。こうやって言葉に書いてることで築地さんは生きてるなとも思う。

僕のFacebookには築地さんが2人いる。
一回作り方教えてもらってけどログインのしかたわからなくて、というかログインの概念がわからなくて、2個目を作った。かわいい。笑
そのプロフィール写真は、もう誰も変えれない。遠くを見つめる築地さんが浜辺に立っている。美しい写真だ。毎年、築地さんの誕生日が来るとその写真が出てくる。テクノロジーってすごいね。タイムカプセルみたいでまだまだ死ねないみたいだよ。

そんなことを別の海、日本海を見て思い出したりしていた。
僕らは想像を超える美しさの中に生きている。そして生きてる人も死んでいった人たちも、それと同じような美しさを抱えた存在なんだと思う。

そこに僕は触れて、僕の中にまた新しい美しさが芽生える。
なんとも奇跡的な惑星だなと改めて思うのだった。



いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。