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歩くことで救われた話。

昔から歩くことが好きだった。実家の北海道は果てしなく広大で一台バスを逃すと1時間待たなければ次はない。見渡せば自然あふれる北海道。じゃあ歩くかと幼少期からのくせになっている。

特に何があるわけでもない。風が吹いたり、口の匂いがしたり、鳥や虫の声が聞こえる。誰かのペースに合わせる必要もない。立ち止まってもいい。小走りしても、鼻歌だっていいじゃないか。歩くってのは自由なのだ。

仕事になっても歩き続けていた。1日中リサーチで知らない町を練り歩き、出会った人と話したり、酒を飲んだり、そうやって場所のことを知って提案に織り込んで仕事になっていった。そんな僕が歩くことをやめざるを得なくなったのがコロナがはじまってから。僕の歩みはぐんと落ちた。

1年も経つと頭の中にいろんなモヤモヤが溜まっている感じがあった。仕事も忙しく、会社の成長を喜びながらも自己は置いてけぼりのまま、鬱屈とした日々を過ごした。酒を飲み、タバコを吸い、飯を食って寝る日々。

世界の停滞とともに自分にも大きな停滞が訪れたと感じた。ずっと地下室に閉じ込められた動物のような気持ちになった。

とある日、週末の事務所で仕事をしていた。そういえば今日は親友の誕生日だと思い出し、招集。二人でいつも通り酒を飲むも事務所の酒の底が尽きる。はて、何をするかということで棒の倒れた方向へ歩く遊びを開始した。

結果、その日僕らは20km近くを練り歩き、知らない道を進み、知らない風景を見て、笑い、無言になったり、迷い込んだり、家に着く頃には深夜を超えた真夜中だった。あれだけ歩いて疲れたはずなのに体は今までにないくらい軽く、心が晴れた感じがあった。あー歩くことで救われたとその夜思った。

その数日後、大阪でトークイベントがあり終わり次第歩き出した。久々の大阪。人通りの多い道を避け、ずっと南下した。そしてまた北上した。合計これも20km。進んだり、止まったり、眺めたり、考え事をしたり。

それからというものの夜の御所を歩いて帰ったり、鴨川を黙々と歩いたり、自転車ではなく歩き続けた。今月200kmも歩いていた。歩くことで考えずに済むし、歩くことで考えることもできた。自分自身のことをとても考え、何も考えないような黒と白が交互に来るような時間を過ごした。

歩くことは自由だ。もちろん自転車でもいいのだろう。でも僕には歩く速度がちょうどいい。自転が止まったような世界を自分が動くことで無理やり動かす。理性だけで過ごしてきた日々で野生を取り戻した。

家でパソコンをひらき、ビデオで誰とでも話せる、すぐに風呂にも入れて、ふかふかの布団もある。なんて快適な暮らしだろう。

それでも僕は汗だくでタクシーで10分のところを30分かけて歩く。
歩かなくてもいい日にアホ見たく歩く。考えなくていいことを考えなくなるし、考えたいことだけにじっと向き合うこともできる。気になるお店でコロッケだって買える。賢そうな大人であるのもいいけれど、野生の獣みたいな感覚を人は忘れてはいけないのだなと思う。それを歩くことで気づかせてもらった。

ここ数年の鬱屈を少し長めの目的もない散歩が吹き飛ばしてくれた。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。