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より遠くを眺めたい。

「世界はこうなっていくだろう」ってことを実はみんなわかってる。
でも、「全然違ったじゃん」と発言の責任を取らされると思って口にしない。
僕はそれで命が取られるなんてことがないことを知っているので自信ありげにいつも世界の先の話をする。

遠くを見つめる時、僕らは目を細める。
そのさらに遠くを見ようとしたら?
そう僕らは目を閉じる。想像するしかないんだ。
これは誰だって同じ。天才も飲兵衛も同じ。
未来はイメージするしか見ることはできない。

まもなく世界はこう変わる。だから今これをやろう。
ほとんどの仕事がそういうなんの保証もない“予感”に“ベット”してくれている。
のるか、そるか、極論いうとそれでしかない。

周りの出方を見て、何にかけるのかを決めようものなら、それはもう遅い。
いつも時代は直感と圧倒的少数派の根拠のない熱量でほだされる。
万人がいいね、美しいね、かっこいいねと呼ばれるものごとは、最初の数粒の万人が知らない熱量で動いている。そして、その粒は多くの人が夢中になる頃には、もう別の何かに夢中になっている。それは万人が理解できない別の何か。

僕がわからない世界に夢中になってる人がいる。
それを僕は甘くみるだろう。でもそれが世界を動かすかもしれない。
僕が夢中になることがある。でもそれを1mmもわからない人がいるだろう。
でもそれが世界を動かすかもしれない。

ほら、世界はわからないことだらけで出来ている。
なのに、未来のことを「こうなるかも!こうなったらいいよね!」と語りにくいのはなぜだろう。それがもし間違っていたとして何がいけないのだろう。
飲み込む「ありえたかもしれない未来」が、自分の腹の中で灯火を消してしまうのであれば、それは吐き出してしまった方がいいんじゃないかと思う。

もっとたくさんのあったらいい未来を聞きたいし、それは絶対に楽しい時間だと思う。目を細めても見えない未来に目を閉じて誰も追いつけないくらいの未来を想像して、今の時代はちょうどいい気がしている。

もっともっと遠くの話を。
ぎゅっと目を閉じて夢想したい。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。