見出し画像

世界の捉え方は、その人次第

移動が続く、長旅のことはどこかでかこうと思ったまま時間だけが過ぎていき、昨日今日は浜松へと足を運んだ。良いブレストが展開されほくほくとした気持ちで京都へ戻り、すぐさまビデオ会議でまた次の悪巧みへ。

企みから企みへとジャンプし続けている。
夕暮れ迫る新幹線の外の風景に音楽が嫌にマッチして心が満たされる。
幸せはいろんなところに落ちているのだなと思う。それに気づくか気づかないかだけの差であって、その人そのものが開いているか閉じているかだけの差なのだろう。開いている人でありたいなと思う。

さらさらとした雨を美しいなと思う気持ちと、煩わしいなと思う気持ちがこの世界には同居しているのだと想像する。雨足が強くなるにつれ、どんどんとスタンディングオベーションのようだなと想像する。思わず口に出た言葉は無数の拍手にかき消されてなかった言葉になってしまった。

いつも心で色々と喋っている。誰にも聞かれない言葉を発し続けている。
子供の頃から、大自然が広がる場所で育ち、それを眺め、想像を膨らませ膨大な夏休みの時を過ごすことをしていた。話し相手は自分自身で思ったことを言葉にする。

多感な時期になると、そういうことをそのまま口に出す人はいないのだと気づき心の中でぼそぼそとしゃべるようになっていった。ありがたいことに、アイデアを作る仕事というのは、体の中で生まれた発想を言葉にしなければいけない。僕は水を得た魚のように言葉にしていった。天職だなと今でも思う。

友達は多かった。ひとりぼっちではなかったが、本当の自分というものが常に心の中でゴロゴロしていた。そいつと話し続けているような人生だったと思う。おかげで僕の心はいつものびのびとしていた。言葉に出しちゃう癖が正直者だと信頼された。仕事はたくさん舞い込むようになった。

移動している時間が好きだ。いつも嬉しいことに誰かに囲まれてワイワイしている。移動の時間だけはふと昔の松倉少年に戻る。今日も車窓を眺めながら移り行く光の加減と遠い誰かの営みを眺めて時速300キロで移動した。この世界を美しいと捉えるか、憎らしいと捉えるかは自分自身だ。僕が見る世界はいつも美しい。このような心でおじさんになれたことを誇りに思う。

心の中の松倉少年のおかげだなと自分自身を褒め称える。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。