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「自分らしさ」という落とし穴

ふと、飲み屋で個性豊かな仲間たちと飲んでる時に「自分らしさ」という言葉を想起した。この騒いでる人たち(謎のフランス人2名と知らないおじさん含む)は自由で楽しげでしなやかだ。知ってる人たちは皆、お天道様が出ているときは、それはそれは立派なお仕事をしている。この深夜のスナックで騒ぐお天道様が見てないときは何とも人間的で日中より豊かな表情をしている。

かたや。その日の午後一、若い子たちと話をしていた。
就活に悩む子もキャリアに悩む子も「自分らしい仕事」というものを探していた。その帰りに立ち寄った書店では「自分らしさ」を取り戻す書籍が目についた。そして、自分自身の「自分らしさ」なんてものを考えたことがなかったと気付いた。

どうだろう、みんな結構考えるのだろうか。
若い人たちが探す自分らしさと同じものは自分のどこにあるのだろう。
なんて難しい問いなんだろうと思った。そんな高尚な問いに若い子たちは向き合っている。そして、それをもし見つけれたとして、どうなるのだろう。色々と疑問が募った。

「その人らしい」という意味で言えばスナックで騒ぐおじさんたちの方が圧倒的に「らしさ」がある。どちらかというと「生き様」ということが近いかもしれない。「自分らしさ」と「生き様」って凄い近しいと思わない?

言葉のように「生きている様(さま)」だとすると自分らしさというのは、あなたが生きてる様のことなのだ。生きているってことは変わり続けていくことでもある。当たり前のように老け込んでいくし、努力を積みかなねればできなかったことができていく。その様子が生き様なんだろう。

ここまで行き着いて、ふと若い子たちの会話の感触を思い出した。
彼ら・彼女たちがいう「自分らしさ」というものは、固定された普遍なもののようなニュアンスがあった。そうか、だから「自分らしさ」というものを捉えられずにいるのだ。変わり続けて成長し続け、移動し続けている自分らしさというものに眼差しを向けようとし続けて、自分自身を見れなくなっているからかもしれない。

「自分らしさ」というものは、それを見つけられずに。でも確かにある日常を生きていくあなたそのものなのだと思う。あなたらしさは生きていく中で育っていって、自分がやるべきこと・やらないことの分別が生まれていくる。何か悩みながら行動し、納得のいく結果や煮え切らない想いを飲み込んだり、この時間に意味はあるのかと自問自答するような時間を重ねる中でやっと自分の分別というものが生まれるのだろう。

そんなことで言えば僕なんて20代後半になんとなくそれがぼんやりできるようになった気がする。他の人よりはちょっと過酷で過激な現場で生き続けたので、気づけたタイミングは少し早いかもしれない。ここでいう「自分らしさ」を獲得できたのは30才の背中が見えてからのような気がする。それまでは相談してくれた若者たちと同じように「はたして、これは??」という感覚で生きていた。

だから、若い人たちに改めてここで回答すると、そんな焦ることないよ。と言いたい。もし必死に探してなんとか手のひらに納めた「自分らしさ」も半月もすれば、またヒョイと姿を消してしまう。それを繰り返しているうちに「自分らしさ」を探し続けた経験しかなくなってしまう。それで30歳まで来てしまうと今度は周りが自分らしさを当たり前のように獲得して焦るだろう。生き様を見つけた人たちは生きが良い。気持ちの良いほど価値観が明確にあり、清々しいのだ。たぶん、この人たちは「自分らしさ」を探す余裕がないほど必死に働かないとダメだったんだと思う。僕もそうだったけど、そんな余裕がまったくなかった。生きていくことに必死だった。その積み重ねが生き様に繋がっていったのだと思う。

だから探すことに必死にならなくて良い。
生きることに必死でいよう。そこで感じる良い気持ちも悪い気持ちも今は全力で受け止めてスルメのように噛みしめるんだ。
そのうち、各々の中に自分らしい分別。つまりは選択が生まれて、それが自分らしい人生を生み出すと思っている。

二日酔いで頭ガンガンしながら、小難しい戦略の話をしている自分は、かつての自分が選んだらしさの上に立っているのだ。
なんとも自分らしいと思っている。松倉さん二日酔いでしょう。と笑うお客さんも、その選択があったから出会えている仲間だ。

明日打ち合わせなんで帰りますという自分は、多分どこかの自分の選択で消えたんだなと思う。飲みに限らず、様々な選択に自分らしさというものがにじみ出る。その集積が自分らしさなのだと思う。

それは「探す」のではなく、結果そうなることだと思う。
今はない「自分らしさ」を探すのは落とし穴だ。
探す暇があるのなら、今を必死に生きることが正しいような気がする。
幸運を祈る!

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。