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「期待」という行為の危険性

アトリエの自動掃除機が毎回ソファの隙間で息絶えている。
全自動で不在時に綺麗にしてくれていて、とても賢い。そう思っていたけれど、その評価を改めるしかないほどの連日の失敗だ。お前…優秀なはずじゃなかったのか…と思うがそこは機械だ、限界がある。性能がいい機械でも、学習しないことには、その価値を発揮できない。

海外で注目集めるメーカーの期待されていたプロダクトが期待値以下だった。世界中から落胆の声が上がった。私自身もその一人だ。
自分にはできないことを誰か、もしくはプロダクトとかに想いをのせることが「期待」なのだろう。冒頭の自動掃除機でも無意識のうちに期待をのせていた。期待から外れると「落胆」が生まれる。この時、当の本人、というか自動掃除機や注目を集めるメーカーは勝手に落胆される。当初からその仕様だったにも関わらず、暴れ出す生活者の期待と想像。

2020年を迎えたときに「車は飛ばなかったし、宇宙旅行もないし、ドラえもんすらいないね」なんて話したりしていた。これは私が勝手に2020年という近しい未来に勝手に期待して勝手に落胆しているだけのことだ。こういうことは世界中でたくさん巻き起こっているのだろうなと想像している。

30も越え、40の背中が見えているおじさんにとっては「期待される」ということがなくなったなと感じる。20代や30代前半には薄ら期待されていた。派手な仕事とか、わかりやすい仕事というものでは何も解決してないなと思い裏方で暗躍し出すと「オワコンだ」とも言われたりもした。おーそれがオワコンかと感心した。終わらないコンテンツの方が私は怖い。終わって次の価値へと進みたい。

誰にどう見られ、評価をされようがスーパーどうでもいいと思い出したのも30代中盤を超えて今に至る辺りに感じた。それまでは誰も自分のことなんて見てないし自由にやったんでという気持ちだった。色々責任がある立場になるといろんな角度で評価もされ始めたけれど、今はもうそれすらどうでもいいと思っている。

カバー画像になっているものは、僕が旅先で拾ったものや、これは良いものだと購入したものや、いただいたものが溢れている。特に名もないような石や貝殻、なんのパーツかわからないものたちが並んでいる。この名もないものたちにとても惹かれている自分がいる。こういうものでありたいなと思っている。

自分自身への期待はある程度あったほうがいいと思っている。
人そのものの可能性は未知数だしね。
でも、自分が誰かに期待することや、その逆で自分じゃない人が期待をよせることにはきな臭さを感じている。期待はある種の価値観のおしつけだ。
「こうありたい」は自分自身で作るものであって、
「こうあるべき」と他者から定義されるのが期待なように感じている。
そんなもん、何様や自分?と言い返すべきだ。

「期待」というものを全ては否定しないが、混じりっ気なしのポジティブな言葉では決してないし、期待を孕んだ発言や行動にはとても慎重になっている。期待なんてタダでもできるのも扱いが難しいところだ。期待していた自分を振り返ると結構身勝手な振る舞いが多いことも反省している。

毎回、アトリエの扉を開け、ソファからお尻だけを突き出した自動掃除機を見て、どうにかこの子が息絶えないように自分も歩み寄ろうと考え始めた最近。期待をするから落胆する。であれば共存する方法を模索し始めたのでした。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。