見出し画像

『卒業』を観て

先日、新春雑談と題してYouTubeで雑談していた折に、読書会主宰者兼コラムニストになりたい、と思いつきで話したのだが、その方向で今年からは活動を進めたいと思った。


観た映画の感想など、かったるくて書いていられないのだが、数打たないとコラムも上手くならない。頑張って書くのである。


NHKのBSで放送していた『卒業』という映画を録画鑑賞した。


有名な映画なので、結婚式場に現れて花嫁と駆け落ちするというラストだとはおぼろげにわかっていたが、鑑賞してみれば、前半は予想していた内容とは全然違っていた。

ダスティン・ホフマン演じる大学生ベンが、父の同僚の妻である有閑マダムに誘惑され不倫関係に落ちるという話だった。


その有閑マダム、ミセス・ロビンソンを演じるのが、アン・バンクロフトである。

母親ほどの年齢の中年女性に、自宅のパーティで誘惑されるのである。

この誘惑される一連のシーンが、この映画の見所であり、ラストシーンの花嫁強奪は、付け足しである。


しかし、この映画のテーマをよ〜く考えてみるに、エスタブリッシュメント批判であるのではないかと思った。


ブルジョワ批判というのは十九世紀のフランス文学からあるテーマである。


ブルジョワ階級のアンモラルを暴き立てて、自業自得という因果で裁くというやつである。


ゾラやモーパッサンの自然主義文学なんかは、だいたいそんなテーマであり、アメリカでそのようなブルジョワ批判をやると、それが、エスタブリッシュメント批判ということになる。(私見です)


だから、この映画は、エスタブリッシュメント批判なのではないかと思った。


私の考えるアメリカ人の典型的なエスタブリッシュメントというのがある。

このミセス・ロビンソンのように、アルコール依存、セックス依存、諸々の良心の呵責をセラピーで解消、インテリぶったリベラルで、有り余る資産家という、民主党右派みたいな人である。


一方で、この手のリベラルの対偶命題として、進化論を否定して生きている反知性主義者で、かつメガチャーチに通う狂信的なクリスチャン(そういうのはだいたい共和党右派)みたいのもいるが、そういうのは、リベラル知識人の巣窟であるハリウッドの圏外であるらしく、『卒業』には出てこない。


近年アメリカでも、ドナルド・トランプの出現とともに、エスタブリッシュ批判が盛り上がった。


私は、ああいうエスタブリッシュ批判も、ここ何年か、観察して、結局は、アメリカ社会内のガス抜きでしかないと思うようになった。


一切は茶番である。


この映画は、公民権運動や、ベトナム反戦運動、ヒッピームーヴメントなどが描かれていない。1967年の映画なのに、である。


大学のキャンパスが描かれているのだが、学生運動が一切描かれていない、不思議に保守的な映画である。


唯一、バークリー大学周辺の寮の管理人が「アジテーター(デモの扇動者)が嫌いだ」と入居希望者のベンに告げるシーンがあり、学生運動の存在に触れられているのは本当にそのくらいである。


というわけで、『卒業』という映画は、その後昂まるスチューデントパワーを、花嫁強奪というかたちで描いているという理解にならざるを得ない。


ベンの行動を通じて、大学を卒業して、高給取りになってエスタブリッシュメントの仲間入りするというコースを拒否するという意思が描かれている。


そして、年上女性との不倫を通して、ささくれだっていくベンの感情を通して、アメリカ社会の欺瞞的なライフスタイルを暴き立てている。


まあ、しかし、欺瞞的なライフスタイルというのは、これはどうしようもないもので、ブルジョワ階級の堕落がどうしようもないのと同じで、それは要するに日本の自民党二世議員や官僚あがりの政治家が、どうしようもないのと同じである。


堕落しきっているのだが自浄作用がない、花嫁強奪したところで、社会の権力構造は何も変わりやしないのである。


みんな同じ穴の狢だからどうしようもない。私は世襲議員も官僚あがりの議員も大嫌いだが、彼らが日本のエスタブリッシュであり、日本をまわしているのは認めざるをえない。


彼らエスタブリッシュの購買力が、日本の権力構造そのものであり、革命でも起こらない限り、根本から変わるのは、不可能なのである。


そういう、やるせなさを、見終わった後で、つくづくと感じた。


不倫相手の娘と駆け落ちすることの是非なんか、どうでもいいのである。


ダスティン・ホフマンの隠キャぶりの熱演もたいがいである。


アンモラルだろうが、なんだろうが、エスタブリッシュメントが社会をまわしているのである。


その構造自体は、この映画が公開されて50年過ぎても変わらない。いまだにミセス・ロビンソンは、ミセス・ロビンソンのままである。こういう有閑マダムは腐るほどいるし、村上春樹氏の小説にもたくさん出てくる。


この映画のいいところは、ミセス・ロビンソンの熟れ過ぎて腐り始めたようなブルジョワ的堕落の描写であって、それは映画の前半30分程度で、そこが見所だと思う。


アン・バンクロフトの演技が、素晴らしい。

ウブな青年を籠絡していくプロセスの一つ一つに芸がある。

そのシークエンスは、見応えがあった。


はたして、アン・バイクロイト演じたミセス・ロビンソンを日本の女優がやると、誰になるのか。


尾野真千子? 吉田羊? 


そのくらいしか思いつかない。


日本映画は、まだエスタブリッシュメント批判を映画のテーマにしていないのである。


漫画原作の子供騙し映画ばかり作りやがって。


花嫁強奪とかいたが、この花嫁(バークリー大学の女子大生)は、金髪碧眼の医学部生と結婚させられるのが嫌で、自分から結婚式場を出たのである。


結婚式場を後にしてバスに乗って、逃げ出したまでは、解放感があっていいのだが、経済的基盤のない二人の新生活がどうなるかが、本題である。


その手前で終わっているんだから、金閣寺焼いた後の話を書かなくちゃいけないんじゃないの? と三島由紀夫に問いかけた小林秀雄の批判と同じことしか、私には浮かばなかった。


(おわり)
















お志有難うございます。