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川端康成『白い満月』読書会(2023.3.31)

2023.3.31に行った川端康成『白い満月』読書会のもようです。

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私も書きました。


家の闇を容赦なく暴き出す白い満月


 
私はこの小説を読んで、日本の家制度と嫡子の正統性ということを考えてしまった。本作は、同じ母と別々父を持つかもしれないという秘密をかかえた兄と姉妹の三人の確執の物語であった
 
長男である語り手の私は、父の嫡男であり、一家の正統な相続人であるが、父から遺伝した虚弱体質のせいで肺病を発症して療養している。家を継ぐ気はなく、次女の静江に財産の管理を任せている。
 
長女の八重子は、母に似た覇気のある女性だが、奔放のあまり、結婚や家という形式におさまらない性格である。よって、彼女もまた、自分が面倒で投げ出した相続財産の管理を次女の静江に任せている。自由奔放のみでありながら、「一個の存在としての敬意」を払ってもらわないと気の済まない、やっかいな性格である。そして、彼女は、心の根っこでは、父を呪い、そして、その父の家を呪っている。
 
次女の静江は、相続する資質のない兄と姉に代わって、家という形式の中に自分を収めたものの、家を呪っている姉の八重子の意識してなのか、無意識になのかわからないハラスメントによって、家族の財産管理人にもよらず、自殺に追い込まれてしまう。なんと、静江の夫も恋人も、八重子と関係があり、おそらくそのせいで、静江の家庭をめちゃくちゃにしたのだ。八重子は、静江の築いた家庭を、自分の負の感情の屑籠にした。
 
ハンナ・アーレントは、『人間の条件』のなかで「私的領域」という用語を使って、生命の維持と種の保存の場である私生活のことを詳しく検証している。私生活(privacy)の語源は「欠けている」(privative=プリヴェイティブ)である 人間の最高の能力(卓越性、徳、善をなす能力、勇気)が「奪われている」(deprived=ディプライブド)「剥奪」(deprivation)されているのが、私生活(privacy=プライバシー)の領域である、とアーレントはいう。一方で、私的領域は、人間が世界に特定の場所を占めるため場所であり、その場所こそが人間の財産であると指摘する。
 
この作品で重要なことは、三人の兄、姉妹は、三人とも家という居場所を失っていることだ。父母から受け継いだ財産を、自分が世界に存在するための特定の居場所にすることができなかったのである。
 
彼らの母は、個人主義者であり、自由主義者であった。夫が病んだ後は、女手で呉服屋を切り盛りし、経済的に自立していた。そしてまた、クリスチャンでもあった。しかし、嫁ぎ先の田舎の旧家と対立し、肺病の夫を看取ってまもなく、動脈瘤の破裂で亡くなる。クリスチャンにも関わらず、夫の墓のそばの小さな墓石に戒名をつけられて弔われてしまった。田舎の家からの婉曲的な復讐である。嫁いびりである。嫁いできた嫁が、金銭的な富を得ようとも、田舎の家は、嫁には財産としての居場所は与えなかった。
 
八重子は、母から、自由奔放の性質を一挙に受け継いでいる。しかし父の家を呪っている彼女は、家の財産を放棄している。つまり、家での居場所を自分で手放して、根無し草である。その腹いせに、次女の静江を、家に対する負の感情の紙屑籠のように扱って、いじめ抜くのである。これは、母に代わっての父の旧家の血筋への、また、相続した財産への復讐なのだろう。
 
動物的生存本能が私生活の中心である。だからこそ、人間の最高能力が奪われているということになるのだが、八重子の無意識は、動物的生存本能に支配されており、妹をいじめ抜くのである。彼女は、田舎の旧家に復讐された母への敵討ちとして兄弟の死と彼女らの一族の血統の断絶を、無意識に望んでいる。
 
古来日本では、出生と死にまつわる人間生活の動物的な部分を、家という私的領域に隠蔽して、生きてきた。
 
現代日本では、出生も死も、社会領域に組み込まれいる。我々は、家で生まれ、看取られるわけではない。だからこそ、私生活の闇は、全て社会的領域に照らされ、セックスもLGBTQ問題のように、隠されることない。動物的生存本能の最後の隠れ家であるところの私的領域自体が崩壊している、
 
核家族化の末に、独居世帯が増えて、少子高齢化が進み、私生活の闇、つまり、動物的な野蛮な本能を世間から隠していたを家という私的領域も解体された。
 
八重子自身は、自分の私的生活力=動物的生存能力に無頓着であるが、兄は、彼女の本能的な生活力にあてられると逃げ出したくなるのである。しかし、一方、この逃げ出したくなるような『目に見えない八重子の力(P.58)』は、兄にとっては、同じような生存本能を持っていた母への郷愁にも重なるので、厄介なのである。世間から隠されていて、家族にしか共有されない本能的な肉親の愛憎ないまぜの力関係が、ここにある。
 
空に浮かぶ白い満月は、動物的な生存能力の象徴のようだ。満潮に新たな生命が生まれ、干潮に生命が絶えていくように、月の重力に支配される生存能力のことを私は考えた。『月に引っぱられて膨らんでいる海面の幻(P.51、P.62)は生存本能に圧倒されて、滅びゆくことを運命づけられたものには、ただただ脅威である。
 
虚弱体質のものらにとって、引き潮は、彼らの死をも呼び込む。
白い満月は、死神のごとく彼らの頭上に現れてくる。それは、死の脅威を与える八重子の存在を象徴している
 
八重子の人間としての徳をことさらに欠いたような、ただただ酷薄な生存本能にあてられて、主人公の兄や、お夏は、生存能力の乏しさから、遺伝的な劣等性への引け目や、疎外感に追い詰められ、神経衰弱の兆候をきたしている。
 
だからこそ、彼らは抱き合わなければならない。兄とお夏が、家の闇を失ったあとで行きていくためには、二人で抱き合って、闇の静けさを取り戻さなければならない。
 
さらには、父母を疑い、闇に中に失った、現世のともし火まで、ふたりして取り戻さなければならない。
ダリヤのように畑に繁茂して居場所を荒らす八重子の前に、血筋につながる赤いあやめは侵食されていくのである。
 
家の闇を容赦なく暴き出す白い満月の冷酷さが、寂寥と耽美のレイヤーに重ねられて、作品に奥行きを与えている。
 
(おわり)

読書会のもようです。


お志有難うございます。