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梶井基次郎『泥濘』読書会 (2023.3.10)

2023.3.10に行った梶井基次郎『泥濘』読書会の模様です。 

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青空文庫 梶井基次郎『泥濘』

朗読しました。

私も書きました。

結核による放縦 ハンス・カストルプと梶井基次郎


 『泥濘』には、結核のせいで体力が乏しいのに創作活動に精を尽くして、それが失敗に終わったことで神経衰弱に陥った様子が生々しく描写されている。

体力があれば、自然と気分も上向いていくのだが、私も、眠れなかったり根を詰めて読書やコンテンツ作成をすると、頭に靄がかかったみたいに、思考能力が下がる。そして、感情のコントロールが効かなくなり、気持ちが不安定になる。

ひどいときには関係妄想のようなものに襲われる。夢に嫌だった人が出てきて、なじられたりする。それが昂じると、因果関係のないものに関係があるような強迫観念が襲ってきて、終始、不愉快になるのである。『泥濘』に描かれる些末な事柄にとらわれて苦しくなる心境は、かなりの神経衰弱の兆候である。

 『魔の山』の第五章では、結核に冒された若者たちが、精神的に放縦(投げやり)に陥っていく様子が批判されている。

理性と精神の力で高貴であり続けることが、西洋人の誇りであり、マダム・ショーシャやその仲間の不良ロシア人のようなアジア的な放縦に身を任せてはいけないと信じる人文主義者セテムブリーニは、放縦に傾いていくハンスをたしなめるのである。

結核の微熱で朦朧とすると、空間も時間も感覚麻痺のなかに溶け込んで、うやむやになってしまう。そして、精神の混濁の中で、ハンスは、周囲の目もも気にせずにマダム・ショーシャへの思いを病的に募らせて、彼女を一日中追いかけるのである。

 

(引用はじめ)

 

花が枯れて水が腐ってしまっている花瓶が不愉快で堪らなくなっていても始末するのが億劫で手の出ないときがある。見るたびに不愉快が増して行ってもその不愉快がどうしても始末しようという気持に転じて行かないときがある。それは億劫というよりもなにかに魅せられている気持である。自分は自分の不活溌のどこかにそんな匂いを嗅いだ。

 

(引用おわり)

 

この精神状態は、ハンスがマダム・ショーシャに魅せられている心境にそっくりである。

マダム・ショーシャは、花瓶の中で腐り始めた美しい花のようなものだ。結核に蝕まれたハンスは、平地で健康だった頃は、決して惹かれなかった彼女の不健全な投げやりさに魅せられ、不愉快さを感じながらも彼女の精神的な放縦に引き摺り込まれていく。泥濘にズブズブと陥っていくように。

 

(引用はじめ)

 

影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っている――影だと思っていたものは、それは、生なましい自分であった!

 自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃を張ったような透明で、自分は軽い眩暈を感じる。

「あれはどこへ歩いてゆくのだろう」と漠とした不安が自分に起りはじめた。……

 

(引用おわり)

 

『魔の山』のハンスと梶井基次郎の描く『泥濘』主人公とを比較しながら読む。

 

『魔の山』はだいぶ前に読んだので忘れたが、確か、ハンスは、『泥濘』の主人公が月影の下で、自己から乖離するのと、また別の心境になって魔の山を降りていくのである。

ハンスは、梶井基次郎の陥ったような精神の放縦の危機を乗り越えていった。

それは、別の結核患者たちとの交流による力にも与(あずか)っている

 

(おわり)

読書会の模様です。


お志有難うございます。