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中島敦『名人伝』読書会 (2021.2.19)

2021.2.1に行った中島敦『名人伝』読書会 の模様です。

青空文庫 中島敦 『名人伝』


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私も書きました。

名人伝の完成

イップスという病気がある。たとえば、プロゴルファーが急に、簡単なパットが入らなくなったり、野球選手が、ボールを投げられなくなったりする。突然、体や意識が言うことを効かなくなる症状だ。精神的なストレスが原因と言われるが、実は、何が原因なのかは、最新のスポーツ医学や臨床心理学でもわかっていない。高校球児も、かなりの数でイップスを抱えており、あのイチロー選手も、高校時代にイップスを発症している。もちろん、ダーツや弓道にも、イップスはあるという。


克服のためには、ストレスの緩和という精神的アプローチもあるが、型(フォーム)を徹底的に見直すことが有効なケースがあるそうだ。(澤宮優著 『イップス』 角川書店)

名人といえば、私は、古典芸能の名人が思い浮かぶ。昭和の名人と呼ばれた噺家、古今亭志ん生を私は、最近好きでたまにYouTubeで聴くが、志ん生師匠は名人と言われた。その芸は、洒脱である。自由である。古典落語は厳格な型があり、名人となると、その方の型の中で、登場人物たちが縦横無尽に演じ分けられていく。

型を習得して、その型を脱していくのが、名人の域である、と私は思う。守破離という言葉があるが、方を守って、それを破り、離れていくのが、名人への道だ。紀昌は、飛衛から弓における型を学んだ。それは射之射であった。甘蝿老師から学んんだのは、不射之射であり、それは、もはや弓を引かないで、射るという、守破離の、離であった

イップスも投げようとするから発症するのである。イップスの克服は、不射之射である。ゴルファーが、球を打たなくなり、野球選手がボールを投げなくなることだ。

それじゃあ、プロは、廃業じゃないかという話で、無茶苦茶である。

しかし、その道を極めるというのは、その道で、賞金を稼いで、プロとして生きていくこととは別次元の話なのではないか。志ん生は、寄席の高座で居眠りをしはじめてしまい、心配になって志ん生を起こしに来た前座は、客から、かわいそうだから、寝かせておいてやれよと言われた。結局、眠ったまま高座を務めたそうだ。

どうやら志ん生師匠が呼ばれた、前のお座敷で、旦那衆に呑まされて、気持ちよくなって眠ってしまったのが高座で居眠り事件の真相らしい。(志ん朝が証言している)座敷がかかるのに、寄席にも出てくれる志ん生に気を遣った客の粋な計らいである。しかし、客にしてみれば、もう志ん生がそこにいるだけ、客は志ん生に笑いのツボに射られてしまっているのだ。これも名人の不射之射であろう。

名人は噺をしなくても名人である。さらには、噺を完全に忘れても名人である。

型が人間に表現を与えるが、自由な表現というのは、すでに表現されたものではない。人間の頭の中に名人が存在したとき、名人伝が、無限の自己増殖を始めるのである。

チェスの名人でもあったマルセル・デュシャンが、モダンアートの不射之射として、男性小便器にニスを塗って偽名で出展したあたりから、自由な表現は、表現された作品とは別の次元にあることが、明らかになっている。
『泉』と銘打った男性小便器も、不射之射である。完全に下ネタである。

耄碌したデュシャンが、『泉』を作ったことも忘れて、作品におしっこしようとして、なかなか出なかったら、それも不射之射であり、すなわち、『デュシャン名人伝』の完成であろう。

(おわり)

読書会の模様です。


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