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太宰治『風の便り』読書会(2023.9.22)

2023.9.22に行った太宰治『風の便り』読書会のもようです。

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朗読しました。

青空文庫 太宰治『風の便り』

私も書きました。


炎上系作家木戸一郎が、大御所作家井原退蔵にウザ絡み凸待ち配信したら、旅先に逆凸された件

井原退蔵という作家は、森鴎外と志賀直哉のことを想定して造形されているのではないかと思った。

太宰の作品には、聖書の引用がたくさんある。本作もそうである。一方、内村鑑三に傾倒して、キリスト教に生きていく上での苦悩(主に性欲への自己嫌悪)をぶつけた志賀が、その後、師と仰いだ内村鑑三のもとを離れて、生涯キリスト教的なものと無縁に過ごした事実に比べれば、太宰の、そして太宰の分身の木戸一郎の信仰心は、あまりにも不謹慎である。

『出エジプト記』をパロディ小説化するにいたっては、売文家の卑しさが満載であるとすら私は感じた。

倫理的に潔癖な志賀だったら絶対にやらないことを、太宰はいちいちやっている。

過剰な道化のパフォーマンスを交えて。太宰の好んで描く道化というのは、志賀直哉からすれば、無用の饒舌である。

私が最近考えることは「ファスト化」である。

1920年代に大衆消費社会というものが現れた。ラジオやレコード、文庫本などの普及により、文化が消費されるものになり、ファスト化した(手短になった)。19世紀の文化は消費財ではなく、まだ芸術だった。インテリには、文化を背負う矜持があった。

志賀先生の作品は、消費コンテンツではない、売れ線を敢えて排して、志賀の世界観を作り上げている。

一方、太宰の作品は、なんだかんだでサービス精神旺盛で、世間で消費されるように書かれている。

ファスト化がはじまっている。自分の世界観を書いてる端から、自分で壊して、うまく消費されるようにしている。

太宰は消費財としての小説を書く20世紀の作家である。

自分の小説が、消費されるコンテンツだということを十分に意識して作品に「メタ視点」を入れていた。メタ視点を入れて、小説家自身も、消費されるようになった不幸を暗示している。太宰は過剰な道化のパフォーマンスをしながらも、その合間に不幸に苦悩するポオズをチラ見せするのを忘れない。

小説家を演じるという自意識が現れたのは、大衆消費社会ゆえである。

YouTuberに炎上系が生まれる如く、木戸一郎は、炎上系小説家を演じるという道化を、敢えて戦略的に選んでいる。木戸一郎は、自身がファスト小説家である哀しみを十分に意識しながら、その哀しみを自身への下劣な甘えとして拒否する潔癖な井原に対して、腹いせのようにウザがらみするのである。

そして大御所へのウザ絡みの一連の経緯を、炎上系コンテンツにして仕込んでいる。このやり取りもいずれ、自虐的な作品に変えて販売するのである。

90年代終わりに、新日本プロレスで大仁田厚が、引退した長州力にウザ絡みして、電流爆破デスマッチで、こてんぱんにやられたことがあったが、木戸一郎と井原退蔵のやりとりは、大仁田劇場とよばれた一連のブックを彷彿とさせるものがあった。大仁田厚は、膝の靭帯を切って、プロレスはできないのだが、プロレス用語で言う「セール」がうまかった。セールとは、相手にやられて悶絶するパフォーマンスのことである。

ファスト小説家は、自身のセールが最大のコンテンツなのである。

悪ふざけ、道化を敢えてして、周りのハレーションから作品を織り上げていくのだが、その企みを井原に見破られて、旅先に押しかけられ、魂胆を暴かれるところに、逆ドッキリの大成功、あるいは自分の用意した電流爆破デスマッチの舞台で墓穴を掘って返り討ち、感電爆破して悶絶、というようなカタルシスがあった。

(おわり)

読書会のもようです。


お志有難うございます。