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森鷗外『カズイスチカ』読書会(2021.5.14)


2021.5.14に行った森鷗外『カズイスチカ』読書会のもようです。

青空文庫 森鷗外 『カズイスチカ』
朗読 森鷗外 『カズイスチカ』

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私も書きました。

今夜が山田!

(引用はじめ)

始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。或時は何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう。女の形をしている時もある。種々の栄華の夢になっている時もある。それかと思うと、その頃碧巌を見たり無門関を見たりしていたので、禅定めいた contemplatif な観念になっている時もある。とにかく取留めのないものであった。それが病人を見る時ばかりではない。何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。

(引用おわり)

人生の目的などと書くと、途端に味気なく思うが、日々、遠い先の何かを夢見ていて、目の前のことになかなか集中できないというのはある。
人が雑な仕事をしているのを見ると、「この人、雑だなあ」と批判しているが、さて、我が身のことを思えば、丁寧にやっているわけではない。雑である。

鴎外の文章には、季節の移ろいがさりげなく描かれている。思ってみれば、私などは季節の移ろいのせいで、鼻が出たり、咳が出たりで、嫌だなあと思う程度で、その移ろいを真剣に眺めて味わうというところがない。

残念だが、功利主義的というか、転んでもただでは起きないというような、浅ましさが、どこか、こころの底にあって、浅ましさから解放されることはない。そのせいでいつもイライラしている。

地元紹介のために車の中からドライブしている道すがらを録画して、あとで編集していると、その時は運転で一生懸命だったせいか、見落としていたものに色々と気がつく。五月は山の緑が急に深まる季節だ。二週間くらいで、色あせていた山の色が濃くなっていく。色あせた山にも、濃くなる緑の気配はあるのだが、色あせたほうにしか目がいかないのか、なんでもない山の景色に目には映る。きらびやかなものばかりに目がいってしまう。変化には気づかない。

私は険しい北アルプスの冬景色が好きだ。一方、雪解けのさなかの北アルプスは、残念でだらしない印象があるのだが、そんなのは、自分の勝手な主観である。

翁が盆栽を眺めるとき、何を考えていたか。その時の気分とは切り離して、盆栽を眺めることができれば、盆栽の中に展開される小宇宙の因果関係に没入できる。盆栽も生きていて、枝や葉は、かすかにだが、変化を繰り返している。昨日と今日では、盆栽の様子も違う。そのかすかな息遣いに気づいているか?

そういう観察眼がないと、翁のように「この病人はもう一日は持たん」と言い切ることはできないのではないかと思った。


(おわり)

読書会のもようです。



お志有難うございます。