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坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』読書会(2022.10.28)

2022.10,28に行った坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』読書会のもようです。

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青空文庫 坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』

朗読しました。

イデア論は青鬼の思想である


(引用はじめ)

私はだから知っている。彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛いい愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。
 しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人(われひと)ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。

(引用おわり)

最近、ハンナ・アーレントの『人間の条件』を精読している。国家や共同体が大事で、不老不死を目指すという考え方は、ギリシアの都市国家に強い思想だった。遅れた近代化から、列強に伍して帝国主義の道を歩んだ本邦も、国体の不老不死を願いつつ戦争に明け暮れ、東京に絨毯爆撃され、なおかつ、原爆2発落とされ、無条件降伏した。

久須美という金を持った男を「鬼」と言っているが、彼は観念の上でサチ子を愛しているだけであると彼女は見切っている。人を冷たく突き放して、観念の上に生活するというのは、ソクラテスに始まる学派がはじめたことだ。

国家や共同体は、不死ではない。アテナイもローマ帝国も大日本帝国も滅んだ。栄華を極めた国家や共同体は、いづれ滅びる。決して、不死ではない。しかし不死ではない国家に対して、観念の上で形而上学的な永遠を見つめるというのが、哲学者の生活(観照生活という)であり、それは都市国家の市民の政治的生活に優位しているということを、ソクラテスとその弟子たちが考え実践したのである。

国家を見限り解体していく思想運動が、ソクラテス=プラトンのイデア論の核心である。

イデアは、この世に実物としては存在しない観念である。

坂口安吾の『堕落論』もそうだが、人は、現実だけに埋没して生きていけるほど強くない。人は必ず死ぬから、現実だけに埋没することは、不死を求める欲求になる。しかし不死に挫折すれば、観念の中の永遠にすがりたくなる。

処女は永遠の観念である。人間は老いて死んでいく。処女の処女性だけを抽出すれば、行き着く先は、現実的な不老不死への諦めであり、その反動としての観念的な永遠を求めるイデア論の信奉となる。

そして、母は不死である。母は、国家や共同体の母体であり、現実に迫りくる強い思想である。

日本には、情緒に溺れる刹那的な大和心はあっても、永遠を求めてやまない強烈なイデアへの希求はない。

日本にはまだ、国家と共同体と母という、ファンタジックな思想を乗り越える哲学はない。現実の中に不死を求める非現実な衝動に強く突き動かされ、その結果、避難所でクズれるような堕落を繰り返している。

だからこそ、イデア論は青鬼の思想なのである。永遠を求める哲学者こそが青鬼なのである。

坂口安吾は、永遠を求めて、不死に抗(あらが)っていた。

具体的には、彼は、戦後日本という国家と共同体と母に象徴される家制度とに、つまりは、まがい物のイデアの影に、抗っていたのである。

青鬼の思想であるイデア論の褌を洗うところから、初めて、これからも、国家と共同体と家制度とに抗っていくのだ。

人間が人間として現象化する以前の世界がイデアだから、サチ子には、イデアがなつかしいのだ。

イデアに突き放されてあることが、安吾の文学のふるさとでありなつかしさなのだ。

     (おわり)

読書会のもようです。

https://youtu.be/8Kkw6-gWUso


お志有難うございます。